TATTOO COLUMN

 
 
第7話 窮地
 
▼前回までのあらすじ------------------------------------
思いがけない海辺での写真撮影によって、大きなトラブルを呼んだ梨奈。
仲間の直美が波の高い海に転落するという一大事を、暴走族のヘッドである高浜の命令により一命を取り留める。そんなトラブルもありつつ思い出に残る夏を過ごしながらも、梨奈が牡丹として休日にタトゥーを入れてきた人数も大分増えてきた。そんな中、ピオニーではボディーアート部門として、牡丹がプロデビューする話が浮上する。そして12月、プロとして上々の滑り出しだった梨奈の元に、トラブルの種が舞いこむ・・・。
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梨奈は年末年始に自宅に戻った。ときどき家に帰りはするが、転居してから自宅に泊まるのは初めてだった。母親は「お父さんにはいれずみ、見つからないようにね」と最初に注意した。父親はまだ梨奈のタトゥーには気づいていない。
 
去年は正月に政夫と七海の三人で伊勢神宮に初詣に行ったが、今年はバイクギャングのメンバーで、一月三日に熱田神宮に行くことになった。ただ、康志と直美は旅行に出かけて、参加できなかった。

初詣は、七海、沙織、淑乃は晴れ着にコートを羽織るという装いだが、梨奈は赤いウールのセーターにダウンジャケット、下はジーンズだった。

初詣を済ませたあと、みんなは達義のアパートに行った。今は沙織と二人で住んでいる。そこでささやかな新年会が催された。今夜はすき焼きパーティーだ。

乾杯のとき、達義が秋に沙織と結婚することを発表した。それを聞き、みんなが盛り上がった。結婚後もしばらく、沙織は今勤めているクラブで働く。達義はもちろんバンド活動を続ける。しかしあと何年続けられるだろうか?

富夫と淑乃も来年ぐらいには結婚したいという。達義は中小企業とはいえ、正社員で収入も安定している。しかし他の三人は契約社員など、非正規雇用であまり収入が多くない。身分も安定しているとはいえない。結婚し、家庭を築く責任ができれば、そういつまでもバンドを続けることはできない。

「俺たち、高校時代から続けてきたバイクギャングも、あと一、二年、というところかな。いつまでもバンドやってるわけにいかないし。みんなこれから結婚し、家庭を築き、子どもを育てるという義務ができるからな。収入などもしっかり得られるようにしなければならんから」

リーダーの達義がしんみりと言った。

四人は同じ高校の先輩後輩だ。ロックが好きなメンバーが集まり、バンドを作った。かつて五人いたメンバーは、四年前に一人が抜け、今の四人になった。

「何とかプロになれるようにと頑張ってきたが、やっぱりプロの壁は厚かったな。多少の注目はされたけど。その点、プロのタトゥーアーティストになる夢を叶えた牡丹はすごいよ」

「でもこの八年、いろんなことがあったけど、本当に充実してたよな。けんかもけっこうしたけど。我が生涯に一片の悔いなし、だぜ」

政夫が右手の拳を天に突き上げた。

「おい、まだ生涯終わっちゃあいないぜ。おまえはまだ死んでない」

富夫が横やりを入れた。

「そうよ。マサと私の人生は、これからなんだから。私たちも結婚しようね」

七海は政夫に寄り添って、キスをした。みんなからやんやの喝采があった。淑乃も負けじと、富夫に抱きついた。

「ああ、いいなあ。私だけ独りだから」

梨奈はいかにも実感をこめてため息をついた。

「大丈夫。梨奈はこの中で一番若いんだから。すぐに彼氏できるよ。梨奈の彼氏は、やはりタトゥーアーティストかな」

達義が梨奈を慰めた。梨奈は早生まれで、誕生月が三月なので、同じ学年とはいえ、四月生まれの七海よりほぼ一年生年月日が遅い。星座は二人とも牡羊座だ。

「あと一年できるか二年できるかわからんけど、バイクギャングは最後まで完全燃焼しような」

「おう!!」

達義の呼びかけに、女性も含め、全員が声をあげた。
そしてまたビールで乾杯した。

「いいですね。バイクギャングロッカーズの男の友情。私はまだみんなと知り合って、一年も経ってないけど、ほんと、みんないい人たちばかりで。最初に会ったのは一昨年のタトゥー大会といっても、付き合い始めたのは、マサさんにタトゥーを彫ってからだから」

「年数なんて関係ないよ。今では牡丹も俺たちの大切な仲間だ。俺たち、これから死ぬまでずっと仲間だぜ。たとえバンドは解散しても。何といっても、俺たち全員の身体には、牡丹が彫ったタトゥーが入ってるんだからな」

政夫にこう言われ、梨奈はつい涙ぐんでしまった。

「ところで梨奈もいよいよ牡丹として正式にプロデビューだな。おめでとう。沙織以外の三人が、さっそく初日に入れに行くんだろ?」

達義が梨奈に尋ねた。

「ありがとうございます。淑乃さん、直美さん、七海が六日に来てくれます」

「私は今ジュンさんに背中彫ってもらってるんで、一緒には行けないけど、またそのうち入れに行くね」

「沙織さん、天女、どれぐらい進みましたか?」

梨奈にそう訊かれ、沙織は背中をみんなに披露した。沙織は初詣では和服を着ていたが、家に着いてから、普段着に着替えていた。

首の下から腰にかけて、華麗に舞う天女が描かれている。海辺で梨奈の鳳凰を見て感動し、去年の九月からジュンのところに通っている。ジュンの作品だけあって、非常に美しい天女だ。まだ一部分色が入っていない。

沙織がジュンにタトゥーの図柄を相談するために背中を見せたとき、梨奈の作品である腰のツバメとバラを見て、「梨奈さんもうまくなりましたね。もうすっかりプロの腕前ですよ」と褒めてくれたそうだ。

「あと二回ぐらいで完成だと言われたわ。今月中には完成させるつもり。正月休みが終わったら、さっそく次の予約を入れるわ」

沙織は天女の完成を楽しみにしている。富夫が写真を写させてくれと頼むと、「写真は完成してからにして。やっぱり中途半端ではいやだから」と断った。それでも、完成したら撮らせてあげる、と約束した。

みんなですき焼き鍋をつついた。鍋奉行は今度も富夫が務めた。

「ヤスたち、どこに旅行してるんだっけ?」と政夫が達義に尋ねた。

「あいつら、伊豆のほうに行っとると思ったが。確か駿河湾の海の幸食いに行くと言っとったで」

「沼津の戸田(とだ)温泉だよ。ツアーでけっこう安いパック見つけたと言ってたよ。正月料金なのに、一泊二食付きでバス代込みで20,000円だとか。二人部屋にしてもらったから、少し追加料金とられたと言っとったけど。温泉はタトゥーお断りというとこが多いけど、あいつらお断りでもこっそり入ると言ってたぜ」

富夫が達義の回答に付け加えた。

「伊豆の温泉ですか。いいですね。私は伊豆は熱海にしか行ったことないけど」と梨奈も言った。

「私たち、みんなタトゥーが入ってるから、なかなか温泉も難しいけど、タトゥーOKの温泉があったら、みんなで行きたいね」

背中にまで大きなタトゥーを入れてしまった沙織が提案した。

「そうだな。一度ネットなんかで探してみるか。もし入れる温泉があれば、みんなで行こう」
 旅行の話などで、場が盛り上がった。そのとき、達義のスマートフォンに康志からメールが届いた。先ほど達義が送ったメールへの返信だった。

「おう、おまえら、今はすき焼きパーティーか? 今年は参加できなくて、わりぃわりぃm(_ _)m。旅行は去年からの直美との約束だったからな。

こっちは今海の幸で、直美と乾杯だ。宿は古くてぼろっちいけど、めしは豪勢だぜ。温泉も特にタトゥーお断り、なんて書いてなかったんで、堂々と入ってきた。一緒にツアー参加した人から話しかけられたけど、ロックバンドやってる、と言ったら、けっこう受けたぜ。

戸田温泉はなかなかいいとこだ。海の眺めがいいし。ちょっと高いところに行けば、海の向こうに富士山も見えるぞ。最初はとだ温泉だと思ってたけど、“へだ”と読むんだってよ。

タツと沙織の婚約発表だって? 俺も負けずに、直美と婚約発表するぜ(^_^)v。すぐに結婚、というわけにはいかんけど。やっぱ、もうちょっと稼げるようにならんと、ガキも作れんし(ToT)。俺もいつまでもプータローやってられないよー(--;)。

バイクギャング、最後まで精一杯やろうぜ!! 解散しても、みんな、いつまでも仲間だぞ。もちろん牡丹もな」

添付ファイルで、直美と寄り添った写真や、豪勢な海の幸の写真を送ってきた。みんなで康志のメールを読んで、うらやんだ。梨奈は特に自分のことも仲間だと書いてくれ、嬉しかった。富夫も康志が正してくれるまで、戸田を“とだ”と読んでいた。

「ヤスの野郎もうまくやってやがるな」

「これで俺たちみんな婚約モードに入ってまったな。やっぱ家庭持てば、いつまでもバンドやってられないもんな。俺も七海に対して、責任があるし。いよいよバイクギャングも今年、来年あたりで最終章か」

「ヤスが言うように、僕たちは最後まで精一杯やって、真っ白に燃え尽きようよな」

その場が少ししんみりとなった。婚約発表で盛り上がったが、そのあとバイクギャング解散に話が及び、やはり寂しかった。仲間としての期間が最も短い梨奈でも寂しい思いをしているのに、もう八年も続けている達義、康志、政夫は感慨はひとしおだろう。

「おいおい、今日はお通夜じゃないんだぞ。せっかくの新年会だし、俺と沙織の婚約発表の場でもあるんだ。牡丹だってもうすぐプロとしてのスタートだ。パーッと賑やかにいこうぜ。パーッとな。バイクギャングもこれからもう一暴れだぜ」

達義は自分たちの歌を収めたCDをかけた。秋に出した新しいアルバムだ。ジャケットは表裏とも梨奈の美しいタトゥーが飾っている。後ろ姿なので、顔は写っていない。CDは300枚完売し、さらに追加で100枚作成した。疾風韋駄天会のメンバーは20枚以上買い、他の友好グループにも紹介してくれた。MP3で配信した音楽も、多数ダウンロードされた。
新年会はまた盛り上がった。
 
新年最初のピオニーの営業日、七海、淑乃、直美がファッションタトゥーを入れるためにやってきた。ボディーアート部門を設立して、最初の客だ。図柄はすでに決めてあった。七海は左の肩にピンクの蓮、淑乃はへその左側に赤い鯉、直美は左腕に紫の牡丹の花を依頼した。今日から梨奈のピオニーでのアーティスト名は、牡丹に変更した。アートメイクでも牡丹の名を使う。ボディーアートとアートメイクの二刀流だ。

三人とも出来栄えには満足した。牡丹の技術は、今やジュンやコージも認めていた。プロとしての将来は順風満帆と思われた。
 
眉にアートメイクを施した山木が、今度はファッションタトゥーの客としてやってきた。心配していたケアはきちんとなされ、眉はきれいにカラーが入っていた。

先日、山木から聞いたという女性から、梨奈にアイラインの施術をお願いしたいという依頼があった。そのとき彼女は、ぐっとりりしくなった山木を見て、ぜひとも梨奈を指名したい、と言っていたので、今度はきちんとアフターケアをしてくれたのだな、と嬉しかった。

「今度はきれいに残っていますね。とてもりりしく見えますよ」

「先生に叱られないように、僕も気をつけましたからね。やっぱり職場でもちょっと見方が変わってきました。中には男のくせにアートメイクなんて、って馬鹿にする人もいますが、知り合いの女の子たちには好評でしたよ。どこでやったの? と訊かれ、先生を紹介しときました」

「はい。山木さんから聞いた、という方から予約の電話をいただきました。紹介してくれてありがとうございます」

梨奈は客を紹介してくれたお礼を言った。

「では、さっそく始めましょう。前回打ち合わせをしたとおりの絵でよかったですか? もし何か変更の希望があれば、今のうちにおっしゃってくださいね。色の変更もできます」

梨奈は山木が選んだフラッシュを示した。

「はい、その絵のままでいいですよ。その絵、気に入ってます。特に色っぽい女性のお尻がいいです」

「それじゃあ、お尻にも花柄のタトゥーを追加して、セクシーに仕上げてあげますね」
梨奈は笑って提案した。山木も「はい、お願いします」と応じた。

まず承諾書を書いてもらった。そのとき、「これはこの前書いたのに、また書くのですか?」と山木が尋ねた。

「はい。アートメイクとファッションタトゥーは別のものですから、それぞれ承諾書を書いていただきます。ただ、身分証明は前にいただいた免許証のコピーがあるので、今回はけっこうです」

準備ができ、施術となった。山木の左の二の腕に転写を行った。転写はきれいにできた。エステベッドに横になってもらい、梨奈は山木の肌に最初のニードルを下ろした。

「イテテテ!!」

山木は叫び声を上げた。少し腕も動かしたが、梨奈がぐっと押さえつけていたので、ラインがぶれることはなかった。

「大丈夫ですか?」

「すみません。眉と同じぐらいかなと思ってたら、ずっと痛かったんで、ついびっくりしちゃって」

「はい。やっぱり針を刺す深さが、アートメイクのときよりずっと深いから、タトゥーのほうが痛みはあります。でも、すぐ慣れますよ。今使っているデジタルマシンは、コイルのマシンより肌へのダメージが少なく、痛みも多少軽いですから」

梨奈は励ましながら施術を続けた。しかし山木は何度も休憩を要求した。施術中に動かないので、それだけはまだよかった。下手に動かれると、針が逸れて失敗してしまう恐れがある。
梨奈は「あんた、男でしょう。もう少し辛抱しなさいよ!!」と怒鳴ってやりたいと思ったが、そんなことを言われる山木の気持ちをおもんぱかって、やめておいた。

三時間ほどで終了する予定が、一時間近くオーバーした。今までこれほど痛がって、休憩ばかり要求した依頼者は初めてだった。それでも、出来栄えはよかった。苦労して彫っただけに、梨奈は満足した。梨奈はデジタルカメラで作品の記録をしてから、施術部分にワセリンを塗り、ラップを巻いた。

梨奈はアフターケアについて、丁寧に説明した。ラップはにじみ出る体液で下着が貼り付かないために巻いたので、あまり長時間巻き続けないように注意した。もしラップを巻くのなら、ときどき取り替え、肌を清潔に保つよう指示をした。

肌を乾燥させない、モイストヒーリングについても、わかりやすく説明した。アフターケアについて詳しくまとめた説明書を渡した。外科医である和美が作成した説明書なので、精確でわかりやすい。

モイストヒーリングは湿潤療法ともいい、最近のタトゥーのケアでは主流になっている。フェニックスタトゥーでも推奨している。施術した部分を消毒薬などを使わず、湿潤な状態を保つことにより、早く治癒させることだ。施術部を清潔な状態に保った上で、ワセリンなどを塗布し、湿潤な環境を保つ。ラップなどを貼るのも、湿った状態を保持するのに有効だ。ただ、雑菌の感染には十分注意しなければならない。

「要は清潔を保つことです。うちは消耗品は使い捨て、器材はオートクレーブで滅菌するなど、万全を期していますが、お客さんが不適切なケアをして、ばい菌が入ったんでは元も子もないですからね」

梨奈はやや心配ではあったが、二度目のアートメイクのときはきちんとケアをしていたので、大丈夫だろうと楽観した。
 
それから10日後の月曜日、梨奈は和美に、応接室に呼ばれた。

「以前速水さんがファッションタトゥーをした山木さんと、そのお母さん、そして弁護士の方がお見えですよ」

呼びに来た和美は梨奈に耳打ちした。母親と弁護士と聞き、梨奈はいやな予感がした。
応接室に入ると、山木と、二人の男女がいた。山木の顔は苦渋に満ちていた。
和美は梨奈に山木の母親の安子、弁護士の大川を紹介した。

「弁護士の方が私に、どのようなご用でしょうか?」

梨奈は恐る恐る尋ねた。

「あなたですね、うちのアキちゃんにいれずみしたのは?」

安子が梨奈を睨んだ。

「はい。うちではいれずみではなく、ファッションタトゥーといっていますが」

二〇歳の息子に“ちゃん”付けで呼ぶ母親にちょっと違和感を覚えた。マンガだったら“ざあます言葉”を使わせそうな雰囲気だ。

「ファッション何とかといっても、いれずみには変わりないでしょう? うちの大事なアキちゃんの肌に、何ということをしてくれたんですか!? まるでやくざか不良みたいじゃないですか」

「はあ。でも、施術に際し、タトゥーのデメリットなど十分にご説明し、ご本人にご理解いただいた上で施術いたしました。承諾書にもサイン、捺印していただいております。山木様はもう二〇歳の立派な成人なので、山木様本人のご意志でなさったことには、何ら問題ないと思いますが」

梨奈は母親の剣幕に押されながらも、負けじと反論した。

「まあ、それはアキちゃんにも問題があったかもしれません。でも、いい加減な処置をしてくれたせいで、アキちゃんの腕は、化膿してしまったんですよ。この責任はどうしてくれるんですか?」

化膿したと聞いて、梨奈は血の気を失うほどのショックを受けた。施術には何ら手落ちはなかったはずだ。衛生管理はしっかりした。ニードルは滅菌処理して厳封されたものをその場で開封した。インクの管理もきちんとしている。手指の消毒も励行し、ニトリルのグローブも何度も交換した。手が触れるところはラップし、そこから雑菌が付くこともない。後処理もちゃんとしてあったはずだ。化膿をおこすような雑菌が入る余地はない。

「化膿とおっしゃいますが、うちは病院以上に衛生管理を徹底させております。うちの施術が原因で化膿するということは、考えられません。失礼ですが、化膿したのはご子息のアフターケアが原因ではないでしょうか? ちょっと化膿したところを拝見させていただきませんでしょうか」

店長の和美が梨奈に代わって願い出た。

「あなたが見て何がわかるんですか? 私はちゃんと外科の先生のところで聞いてきたんですよ。先生はいれずみした部分から、ばい菌が入って化膿したんだ、とはっきりおっしゃいました」

「私も医師免許を持っている、外科医です。だからぜひ傷を拝見させていただきたいのですが」

和美が外科医だと聞き、安子は沈黙した。山木はセーターを脱ぎ、施術した部分を和美に見せた。和美は注意深く包帯をとった。

施術部分は確かに化膿していた。鼻を近づけると、膿の臭いがする。しかしたいしたことではない。医師が治療したため、傷は快方に向かっていた。化膿した部分は、色が一部抜けてしまうだろう。それでもこの程度では、ケロイドなど大きな傷痕にはならないので、完全に治癒したあと色を入れ直すことは可能だ。

「これは施術のときにばい菌が入ったのではなく、おそらくアフターケアの問題ですわ。山木さん、ケアはどのようになさっていたのですか?」

和美は今度は山木に尋ねた。しかし山木は答えられず、代わって弁護士が発言した。

「昭宏さんは、あなた方がおっしゃるとおりに、きちんとアフターケアをしていたのですよ。それでもこのように化膿してしまったのです。あなたは医師の資格を持っていらっしゃっても、施術をしたその人は無免許ですね。これは立派な医師法違反で、なおかつ業務上過失傷害となりますぞ」

「私は山木さんに訊いているんです。どのようにケアしたか、正確に知りたいのです。まず、それを知るのが第一です」

和美は強い眼差しで弁護士と山木を睨んだ。

「僕は牡丹先生が言うように、モイストヒーリング、っていうんですか? それをきちんとしてたんですが」

「そうですよ。アキちゃんは、その人が言ったように、きちんとモイ、何というんですか? それをしてたんですよ。それでも化膿してしまったんです」

「お母様は口出しなさらないでください。施術したその日は、帰ってからどうしていたのですか?」

そうして、和美は順を追って山木からどのようなケアをしたのかを聞き出した。
施術を終え、帰宅したあと、山木は熱っぽさを感じた。喉が痛み、咳も出た。最近寒い日が続いたので、これは風邪を引いたのだと思い、その日は常備薬の感冒薬を飲み、入浴をせずに、早めに床についた。寝る前にラップを巻き直した。そのとき、風呂の残り湯を使い、滲出液などで汚れたところを洗った。

「そのとき、シャワーじゃなくて、風呂の残り湯を使ったんですね?」

 和美は念を押した。しかし、風呂の残り湯で洗った程度で雑菌に感染する可能性は低い。

「はい。風邪気味で、身体を濡らしたくなかったので、風呂の湯を使いました。石けんをつけ、体液なんかで汚れたところを洗い、タオルでそっと拭き取りました」

翌朝はもうずいぶん具合がよくなったので出勤した。腕のタトゥーを入れた部分が気になったが、下手に触ってばい菌でも入ったらいけないと思い、一日ラップを貼ったままにしておいた。職場でタトゥーの手入れをするわけにもいかない。職場の人には、なるべくタトゥーを入れたことを隠しておこうと思った。

夜、入浴時にラップをはがしたとき、滲出液で肌が汚れていた。その時点ではいやな臭いはなかった。風呂で施術部を石けんで軽く洗った。風呂から出てから、新しいラップを巻いた。

真夏ではないので、一日ラップを巻いたままにしても、それほど問題はない。できれば朝起きたときに、ラップを新しく貼り替えるべきだったが。

問題は翌日に起きた。山木はガソリンスタンドでクルマのオイル交換を命じられ、クルマをリフトで持ち上げた。古いオイルを抜くとき、うっかりして左腕にエンジンオイルを浴びてしまった。そのとき、ラップの隙間からオイルが入り込んでしまった。ラップは肌に密着しているように見えても、小さな隙間が多数できていたのだ。

オイルで汚れた部分をタオルで拭き、ユニフォームなどを着替えたが、スタンドの更衣室にはラップがなかったので、ラップをそのままにしておいた。一見したところ、ラップは肌に密着しており、オイルは施術部に浸入してないように思われた。ラップをはがすと、体液でシャツなどが肌に貼り付き、さらにまずいことになりそうだった。

ラップを交換したのは、自宅で入浴したときだった。

「たぶん、それですね。オイルを浴びたとき、いろいろな雑菌が入り込んでしまったのです。オイルを浴びたあと、オイルが染みたラップをそのまま着けていたのが問題だと思います。ラップをはがし、施術部をきれいに洗うべきでしたね」

和美はそう判断した。

その後肌の具合がよくならなかった。梨奈の説明では、もう施術部分の傷がよくなり、薄くかさぶたができるはずだ。水曜日の夜、施術部分から今までとは違う、いやな臭いがする黄色っぽい液が出ていることに気づいた。翌日は山木は仕事が休みだった。傷口は前夜よりさらに悪化し、その臭いに母親の安子が気づいた。それで山木がタトゥーを入れたことがばれてしまった。安子は仰天したが、タトゥーを入れた部分が化膿していたことにも驚いた。安子はすぐに近くの外科に山木を連れていった。午前の診療時間終了間際に連れ込まれた患者を診察し、医師はタトゥーの施術時に、雑菌に感染したのだろう、と判断を下した。

「そのとき、外科医にはオイルを浴びたことを話しましたか?」

「いいえ、話しませんでした」

「なぜ話さなかったのですか? もし話していれば、原因はオイルを浴びたことだとおそらく推定できたと思います。今のお話を聞いていると、化膿して膿が出てきたのは、先週の水曜日ごろだということですね。もしうちの牡丹の施術が原因なら、もっと早く、月曜日ぐらいには化膿の症状が出ていたはずです。水曜日から膿が出始めた、ということなら、原因は施術の翌々日にオイル交換をして、誤ってオイルを浴びたことでしょう。その後のケアがよくなかったため、そこから雑菌に感染したと思われます」

外科医でもある和美にこう断じられ、慰謝料として大金をふんだくろうとしていた安子は焦った。夫の浮気や性格不一致で離婚し、経済的にあまり豊かではないので、安子は金が欲しかったのだ。昭宏が就職し、前夫からの養育費の援助は打ち切られていた。

それが、化膿の原因が息子のアフターケアの不具合にあったということでは、根拠が弱くなる。あまり無理に押し通せば、逆に恐喝になりかねない。

安子は大川の顔色を窺った。

「しかし、オイルを浴びたことが化膿の原因だという証拠はありませんね。私たちはあくまでもあなた方の施術に問題があったと主張します。最初に昭宏君を診察した病院の診断書もとってありますが、それにはタトゥーが原因で感染したと思われる、とありますよ。

とにかく、あなた方は無資格者がタトゥーを行ったということが問題ですね。いくらあなたが医師免許を持っていても、施術したその牡丹という人は医師ではないでしょう。

もし私がそのことを問題とすれば、ことはあなたのサロンだけではすまないと思います。業界全体に波紋が広がりますぞ。それより、山木さんは300万円の慰謝料、示談金で不問にしてあげようというのです。わるくない話じゃないですか?」

安子は1,000万円ほどふんだくろうとしたが、それではあまりにも金額が大きすぎる。大きな金額を要求すれば、裁判になり、ことはめんどうになる。それよりあまり欲を出さず、無理のない金額で、300万円程度にしておいたほうが、相手もすんなり金を払うのではないか、と大川が忠告したのだった。

大川の話を聞いて、「なんてひどいことを。これじゃあ悪徳弁護士じゃないの」と梨奈は叫びたかった。しかし和美は冷静だった。
「確かにこの業界全体の問題に波及しかねませんね。アートメイクサロンやタトゥースタジオを巻き込んだ。しかし、私たちも病院と提携したり、看護師を置いたり、衛生管理を徹底したりと、いろいろ努力をしていますわ。だからこれまで、アートメイクが特に問題にならなかったのです。
今回の件につきましては、うちにも顧問弁護士がいますので、弁護士の先生にいろいろ相談してからご返事差し上げます。岩崎法律事務所の岩崎先生です。それから、今のやりとりはすべて録音させていただいているので、それも岩崎先生に聞いていただきます」

岩崎弁護士という名前を聞いて、大川は動揺した。昭宏の発言が録音されたのはまずかった。法曹界でも敏腕として名高い岩崎弁護士にかかれば、原因はピオニーのタトゥーではなく、昭宏のアフターケアに問題があったと立証されてしまうだろう。自分の恐喝のような発言が録音されたのも不覚だった。

以前、岩崎法律事務所にいたことがある大川だが、不始末をしでかして、岩崎の事務所を辞めざるを得なくなった。本来なら、弁護士の資格を剥奪されかねないほどのことだったが、もう二度と不祥事を起こさないと岩崎に誓約し、その温情で何とか弁護士の地位を確保することができたのだ。

大川は今自分自身で弁護士事務所を運営しているが、岩崎には頭が上がらない。相手が岩崎では、今回の仕事はやばいと思った。まさかピオニーの顧問弁護士が岩崎だったとは。
するとそのとき山木が安子に訴えた。

「母さん、牡丹先生を訴えるなんてやめてくれよ。タトゥーを彫りたいとお願いしたのは僕のほうだし、いろいろデメリットなんかの説明を聞いて、それでもやりますと、承諾書にも自分の意思でサインしたんだ。膿んでしまったのも、やっぱり僕の手入れがわるかったせいだ。牡丹先生を訴えるなんてこと、しないでくれよ。頼むよ、母さん」

山木は母親に頼み込んだ。そんな山木を見て、梨奈は感銘を受けた。そしてこれまで少しでも山木のことを疎ましいと思った自分を恥じた。

「奥さん、やはり化膿の原因はご子息にありますね。本人がそう認めてしまいましたので、もう無理です。タトゥーを入れたのも、ご自身の自由な意思ですし。もうこの件は諦めましょう」

山木がもうやめてくれと母親に頼んだことを幸いに、大川も幕引きを図った。儲けにはならないが、岩崎に叩かれるよりはましだ。

「先生、何をおっしゃるのですか? 私に泣き寝入りしろ、とおっしゃるんですか? 私は絶対承知しませんからね。私の大切なアキちゃんを傷物にして、諦めましょうもないもんですわ。慰謝料、治療費として300万円、払ってもらいます。それがいやなら、裁判に訴えさせてもらいますよ」

安子は勢い込んだ。しかし大川は安子の口車には乗らなかった。

「このサロンの顧問弁護士が、まさか岩崎先生だったとは。東海の法曹界では、その人ありといわれた人です。昭宏君が化膿の原因がタトゥーの施術ではないと認めてしまった以上、はっきり言って、裁判を起こしても勝ち目はありませんよ。無理強いすれば、かえって恐喝になります。無駄なことはやめておきましょう。私は下ろさせていただきます」

大川は白旗を掲げた。それでも安子は腹の虫が収まらなかった。1,000万円どころか、300万円さえも諦めよという。岩崎がどれほど腕の立つ弁護士か知らないが、戦わずして降参とはあまりにも情けない。

しかし弁護士でさえ無理だというものを、素人の自分が訴訟を起こして、勝てるわけがない。大川がそれほど恐れる辣腕の弁護士が相手ならば、他の弁護士に頼んでも同じだろう。息子の昭宏すら、母親に牡丹を訴えるなという。全く予想外の展開になってしまった。

「わかりました。慰謝料の件は諦めます。でも、それでは私の気持ちが収まりません。その牡丹という人が医師の資格もないのに、いれずみをしていたのは、紛れもない事実ですね。私のアキちゃんをとんだ傷物にしてくれた以上は、黙ってはいられません。店長さん、この人を直ちにクビにしてください」

安子の怒りの矛先は、梨奈個人に向けられた。梨奈はクビにしろと名指しされ、驚いた。

「それはできません。牡丹はアートメイクに関しても、非常に豊かな才能を持っています。うちのサロンにとって、必要な人材ですわ。あなたの個人的な感情で解雇することはできません」

和美は断固たる態度で断った。店長がかばってくれたことが、梨奈には嬉しく、涙があふれそうになった。

「母さん、やめてよ。牡丹先生はわるくないよ。僕が頼んでやってもらったんだから。化膿したのも、僕の責任だし」

「あなたは黙っていらっしゃい。こんな女に先生という必要もありません。それに、この女、全身にいれずみしてるんでしょう? きっとやくざの女よ。そんな女が、無許可でアートメイクやいれずみしているなんて、絶対許しません。即刻この女をクビにしなければ、私は医師法違反で警察に訴えてやります。慰謝料はだめでも、医師法違反と傷害罪は成立するでしょう?」

怒りが収まらない安子は大川に目をやった。

「はい。そのほうは何とかいけるかと……」

「それじゃあ、この牡丹という女を医師法違反、傷害で告訴します。それがいやなら、すぐクビにするんですね」

安子は和美に詰め寄った。

このおばん、めちゃくちゃだ。梨奈は思いっきりひっぱたいてやりたいという衝動を抑えるのに苦労した。さすがの和美も、医師法違反を持ち出されては、ちょっとめんどうになると思った。実際、医師法違反で摘発されたサロンが廃業したという話も聞いている。

「待ってください。さっきも申しましたが、牡丹はアートメイクについても、非常に素晴らしい才能を持っています。それを潰してしまうのは、あまりに大きな損失です。これから医大に行って医師の免許を取るのは難しいけど、看護師の資格ならそれほど無理ではありません。牡丹には看護専門学校にやって、看護師の資格を取らせます。医師である私の指導のもとで、看護師が施術するなら、問題はないはずです」

梨奈は和美がそこまで自分のことを考えていてくれることに感激し、つい涙をこぼしてしまった。この店長を決して困らせるようなことはできない。

「看護師の免許を取るまで、どれぐらいかかるのですか?」

安子は和美に訊いた。

「そうですね。看護専門学校は三年課程なので、それから国家試験を受けると、三年から四年というところですね」

「三年も無資格でやるのですか? お話になりませんわ。そんな全身にいれずみがある女、すぐ解雇してください。そうでなければ、大川さんを通じて、医師法違反、傷害罪で警察に訴えます。これはもう絶対譲れません」

ここまで意固地になられては、和美としても何ともしようがない。何とか安子をなだめ、冷静に話をつけようと思った。山木も母親をなだめようとした。しかし、安子はエスカレートするばかりだった。高額な慰謝料を取り損なったことと、プライドを傷つけられたこと、そして息子の身体にいれずみをした、ということが許せなかった。

私のことをそれほどまでに考えてくれている店長に、迷惑をかけられない。私さえ身を引けば、すべては収まるのだ。そう考えた梨奈は、とっさに「私、辞めます」と声を上げた。

「梨奈、今、何て言ったの?」

梨奈の声に和美は驚いた。

「私、お店を辞めます。これ以上、私のせいで、お店に迷惑をかけられません」

「何を言っているの? あなたはうちにとって、重要な人なのよ。こんな人が言うこと、聞く必要ないわ。うちも顧問弁護士の先生に相談して、きちんと対応するから、あなたは余計なことを考えなくてよろしい」

和美は一時の激情に駆られ、軽率な判断をしないように、梨奈をたしなめた。

「でも、山木さんのお母様は、本気で警察に訴えられますわ。もし裁判になり、厳しい判決が出れば、この業界、そしてタトゥースタジオなどにも大きな影響が避けられません」

「岩崎先生にお任せすれば大丈夫。先生は日本でも屈指の名弁護士です。梨奈は心配しなくていいですよ」

大川は相手が並の弁護士ならば、有利な条件で和解に持ち込む自信はあった。しかし、もし岩崎が立ちはだかれば、勝算はほとんどない。できれば梨奈に身を引いてもらいたいと思った。大川は岩崎弁護士の名前を聞いて、もうこの件から手を引きたいと思ったが、安子が意固地になってしまった。

「速水梨奈さんでしたね。やはりこの場は速水さんに身を引いてもらうのが、最も賢明だと思います。私はこれから警察に参り、あなたを医師法違反、それから昭宏さんへの業務上過失傷害罪で告発します。
そうなればあなたばかりではなく、このサロン、そして場合によっては、アートメイクやタトゥーの業界全体に大きな影響が及びますからね。もしあなたがここで辞めれば、山木様には、告訴をしないよう私からもお話ししておきます。まあ、多少の治療費やいれずみ除去の費用をいただきたいとは存じますが。店長の森川さんにとっても、そのほうがいいと思います」

大川は早期の幕引きを図りたかった。梨奈に退職してもらって、いれずみ除去名目で金を引き出し、それで安子に納得させたいと思った。せっかく梨奈が自らサロンを辞めると言いだしたので、和美を何とか説得しなければ。

和美としては、こんなくだらないことで梨奈を失うわけにはいかなかった。しかし安子ははっきり梨奈がサロンを辞めると確約しない限り、このあとすぐにでも警察に告訴する、と譲らなかった。和美やサロンの他のスタッフたちに迷惑を及ぼしたくない梨奈は、自分さえ身を引けばいいのだと考え、和美が引き留めるのも聞かず、安子と大川に辞めることを約束した。梨奈の目からは大粒の涙があふれた。


牡丹BN2

第6話 トラブル      2013年04月20日(金)10時00分
第5話 海辺のバーベキュー 2013年04月05日(金)10時00分
第4話 背を舞う鳳凰    2013年03月29日(金)10時00分
第3話 彫師デビュー    2013年03月14日(金)10時00分
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Posted at 2013年05月03日 11時02分