TATTOO COLUMN



第10話 愛し合う二人
前回までのあらすじ----------
彫甲の門下生となり、修行をスタートする梨奈。
門下生になり、はじめて彫ることになったのは彫光喜。
嬉しい気持ちと、緊張でいつもより一層素晴らしい出来の刺青が彫れたのだが、
梨奈の才能に嫉妬する先輩彫師の不運な動きも・・・?
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頭の入れ墨が完成すると、梨奈は左右の腕に、牡丹と蝶を彫られた。

「おまえには正統な和彫りを背負ってもらいたいからな」

そう言って彫甲は梨奈の意見を無視して、胸から腕にかけ、胸割という和彫りの様式でラインを入れてしまった。

腕は手首のすぐ上まで、八分の大きさだ。

つまり肩から手首までの一〇分の八ぐらいのところまで絵が入っている。

もう半袖の服は着られない。

だが彫甲は筋彫りだけで色づけはしなかった。

「光喜、彫奈の腕の仕上げはおまえに任せる。四月までに仕上げろ。これはおまえの試験だ。きれいに仕上げたら、おまえにも客を彫らせてやる」

彫甲は彫光喜を呼んで指示をした。

四月までだと、あと一ヶ月ちょっとしか時間がない。

また、梨奈には彫光喜の背中の騎龍観音を完成させるように命じた。

騎龍観音は抜き彫りで、周りを黒く染める額彫りという彫り方ではないので、梨奈の裁量で額を入れろと課題を与えた。

騎龍観音を飾る、菊や牡丹などの花を入れることも許可をした。

いよいよ梨奈に本格的な和彫りの修業が始まった。

梨奈と彫光喜は、お互い話し合いながらどのように進めていくのか、方針を決めた。

彫青龍は

「おまえら、相談にかこつけて、いちゃいちゃするんじゃないぞ。何かあれば、罰金50万円だからな」

と二人を牽制した。

もし彫青龍に二人の関係を知られれば、大変なことになる。

彫光喜の課題はきれいに梨奈の身体に色をつけること。

黒の濃淡によるぼかしなども課題だ。

梨奈の場合は、まだ筋彫りだけの彫光喜の騎龍観音に、日本伝統の和彫りとして、額をつけること。

そして色を入れ、きれいに完成させる。

「二人とも師匠からすごい課題を与えられたな。でも、それをやり遂げたら、たぶん二人とも師匠から認められて、彫り師としてやらせてもらえると思うぞ。頑張れよ。こりゃ、俺もうかうかしとれんがや」

彫大海は彫光喜と梨奈を励ました。

彫光喜の場合はただ色をつけるだけだから、今日は梨奈の課題について話し合った。

彫大海も空き時間だったので、一緒に相談に乗ってくれた。

彫大海には今、大きな図柄を彫っている客が三人いる。

それ以外に飛び込みの客があれば対応することがある。

里奈はまず騎龍観音の周囲の空いているところに、花を追加することにした。

左腕に梨奈が彫った菊が入っているので、花は菊に決めた。

菊を彫り終えたあとで、額彫りのラインを入れる。

方針はそのように決まった。

あとはどのように額彫りのラインを入れるかの問題だ。

雲や波、稲妻などを効果的に入れて、図柄を引き立たせなければならない。

梨奈はデジタルカメラで彫光喜の背中の図柄を写させてもらい、その写真をもとに額彫りの研究をすることにした。

以前、彫光喜の左腕に菊を彫ったあと、梨奈は道場専用に新しくデジカメを購入した。

梨奈はカメラにはあまり詳しくないので、一眼レフではなく、安いコンパクトタイプにした。

三年以上前に購入したデジカメに比べれば、画素数など、機能面では格段にアップしている。

機種選定にはカメラに詳しい富夫の意見を聞いた。

今のデジカメなら安い機種でも、タトゥーの記録用として、性能的には十分だと言いながらも、あまり明るくないスタジオで、ストロボなしできれいに写るように、高感度画質が優れている裏面照射型のCMOSセンサーを採用した機種を推薦した。

タトゥー専用なら、高倍率ズームも必要ない。

最初に梨奈が彫光喜の練習台となった。

彫光喜は針やマシンのチューブなどをオートクレーブで滅菌した。

二階の部屋の暖房を強め、梨奈は作務衣を脱いだ。

そして下着のみになった。

まずは左腕の黒のぼかしから彫ることになった。

愛する男性に裸に近いかっこうを見られ、梨奈は恥ずかしさで興奮した。

胸の部分を彫るときは、上半身裸にならなければならない。

「彫奈、いきますよ」

彫光喜は梨奈の左手首に最初の針を下ろした。

「ああ、私は愛する人から、一生消えない愛の証をつけてもらっているのだ。嬉しい」

梨奈は心の中で呟いた。

道場では二人の気持ちをあらわにできないが、梨奈には彫光喜に彫ってもらえるということが、とても幸せだった。

針で責められるのも、心地よい痛みだった。

彫光喜に彫ってもらっている間、梨奈の身体は燃えていた。

施術は夕食の準備の時間まで続いた。

手首の周りがぐるりと黒く染まった。

それを見た梨奈は、私も完全に彫り師の身体になってしまったのだと思った。

もはや彫り師以外の職業に就くのは難しい。

こうなった以上は、ジュンさんにも負けないぐらいの女性彫り師になろう。

梨奈は決意を新たにした。

夕食後、彫光喜の額をどのようにつけようか、デジカメで写した写真で研究していると、彫大海が二階に上がってきて、

「彫奈、ちょっと下に来て。師匠がお呼びだ」

と呼びに来た。

何だろう、何か叱られるようなことをしたかしら、と考えながら梨奈は仕事場に入っていった。

ひょっとしたら師匠が施術するところを見学させてもらえるのかな。

彫甲はときどき客の許可を取り、梨奈と彫光喜に施術する場面を見せてくれる。

「彫奈、入ります」

梨奈は最初に声をかけた。

彫甲は男性客の背中に、花和尚魯智深を彫っていた。

背中から太股にかかる、額彫りといって、絵の周りを黒く染める、伝統的な和彫りだ。

客はやくざっぽい感じの人だった。

彫甲の仕事を見て、梨奈はさすがに師匠の彫り物は迫力があると思った。

彫甲の背中も、彫甲の師匠彫筑(ほりちく)による、花和尚魯智深だ。

「彫奈、待合室に女の客がいるから、対応してくれ。今青龍が話をしているが、女性彫り師が希望のようだ。もし話がまとまれば、おまえ、彫れ」

梨奈は私が彫っていいのかしら、と心がときめいた。

梨奈は待合室に入った。

そこで梨奈より少し年上に見える、ショートヘアの、メガネをかけた小柄な女性が、彫青龍と図柄の見本を見ながら話していた。

黒っぽいフリースのジャケットを羽織っている。

一見、タトゥーとは無縁の、インテリっぽい女性に見えた。

「こんばんは。彫奈です」

と梨奈は笑顔で女性客に挨拶した。

なかなか整った顔立ちだ。

シルバーのメタルフレームのメガネがよく似合っている。

接客には十分慣れているはずなのに、なぜか胸がどきどきした。

「じゃあ、あとは頼むぞ。もし彫ることになったら、俺に報告しろ」

彫青龍は小声で突っ慳貪に梨奈に言って、待合室から出て行った。

青龍は機嫌がわるそうだった。

自分の客を梨奈に取られたからだ。

そんな青龍の態度を見て、梨奈はちょっと不安になった。

「こんばんは。ホームページで最近女性彫り師が来たとあったので、ちょっと覗いてみたんです。家が近くですので」

その客はほっとしたようだった。

彫青龍の対応が怖かったようだ。

「どのような図柄がご希望ですか?」

「はあ。私、前からタトゥーにちょっと興味があって、小さな花か蝶を入れたいなと思ってたんです。場所はおへその下とか、お尻など、会社の健康診断でも見つからないところに。でも、さっきの人、怖そうで、もう帰ろうかと思ったんですが。やっぱり男の人には見られたくない場所だし」

「そうですね。外見はちょっと怖そうです。でも、みんな優しい人たちですよ」

梨奈は雰囲気を和ませるために、努めて笑顔で対応した。

心の中で(青龍さん以外の人は)と付け加えていた。

「あなた、彫奈さんというんですね。ホームページで見ました。頭に牡丹を彫ってるんですってね」

梨奈はバンダナをとって、頭の牡丹を見せた。

実物を見たその客は、

「わ、すごい」

と驚いた。

「頭に彫ると、もう髪の毛、生えないんですか?」

「そんなことないですよ。今は剃ってますが、師匠の許可がもらえれば、伸ばすつもりです。私も初めて彫ったとき、見つかりにくいところと思って、お尻に牡丹の花を入れたんです。でも前に勤めていた会社で、座るとき、彫ったばかりのところが痛くて、お尻をもじもじさせていたから、先輩に彫ったことがすぐばれちゃったんですよ」

梨奈は自分の体験を笑い話にした。

その客も噴き出した。

「それで、会社では大丈夫でしたか?」

「はい。見えない部分だったので、不問にしてくれました。でも、結局タトゥーにやみつきになって、全身に彫っちゃったんですけど。それで彫り師になったんです」

「お尻でもばれちゃうことがあるんですね。私、お尻かおへその下にやってみたいと思ったんですが。腰は意外と見つかりやすいみたいだし」

「お尻は大丈夫だと思いますよ。私の場合はたまたまその先輩がタトゥーに詳しく、タトゥーイベントの話をしたんで気づかれてしまったんですけど」

その女性はそう簡単にばれることはないと聞き、安心した。

そして今日彫れるかを尋ねた。

「はい。私は空いてますから、大丈夫です。ただ、タトゥーは一生肌に残るものだから、今すぐ決めちゃうんじゃなく、デメリットなどよく考えてくださいね。後々後悔しないように」

もしそのようなやりとりを彫甲や彫青龍に聞かれたら、梨奈はあとで大目玉だったろう。

飛び込みの客に対し、考える余地を与えれば、彫ることをやめてしまうかもしれないので、客が彫る気になったら、速攻で商談を成立させろ、と彫甲は言っている。

彫ってしまえば、後悔しようがあとは客の責任だ、というのだ。

そのへんのところは、フェニックスタトゥーとは大きく違っていた。

「はい、大丈夫です。彫るかどうか、何ヶ月も考えました。家がこの近くなので、この前を通るたびに、入れてみたいと思ってたんです。女性の彫り師さんが入ったということで、決断しました。それに見えないところに小さく入れるだけですから」

梨奈と話し合い、自分が見えるところで、より隠しやすいということで、へその下に彫ることになった。

図柄は梨奈が最初に入れた図柄が牡丹だと言ったので、見本の中から彼女も赤い牡丹に決めた。

大きさは花の部分のみで梨奈の握り拳より少し小さめ。

直径七センチほどだ。

それに葉をつける。

値段は30,000円だ。

「もしよろしければ、その見本にない形の花をデザインしてあげてもいいですよ」

梨奈は客にそう言うと、

「どんな感じの牡丹ですか?」

と客は尋ねた。

梨奈は鉛筆で、コピー用紙にざっと牡丹の形を描いた。

そして色鉛筆で赤い色をつけた。

彫甲の牡丹は和柄としての様式美がある。

梨奈の頭や腕の牡丹もそうだ。

梨奈が描いた牡丹は、ジュンの作品のような、写実的なものだった。

タトゥーの用語では“ファインライン”という。

牡丹は練習で何百枚と描いてきたので、手慣れていた。

「彫奈さん、うまいですね。私の希望にぴったりです。それでお願いします」

話はまとまり、今日彫っていくことになった。

「それでは準備しますので、ちょっと待ってくださいね。針など、これから高温高圧滅菌しますから、準備に30分ほどかかります。これ、同意書ですから、よく読んで、承諾していただけたらサインしてください」

梨奈は免許証の提示を受け、同意書を渡した。

梨奈は待合室から出て、まず仕事場で彫甲に、施術することになったと報告した。

「そうか。それじゃあ隣のベッドを使え。あとは彫奈に任せる」

梨奈は二階に上がり、奥の部屋でたばこを吸っていた彫青龍にも報告した。

師匠に伝えたのでいいようなものだが、報告しなかったことで、あとで言いがかりをつけられるのがいやだった。

「そうか。彫奈の初仕事だな。頑張れよ」

彫青龍はそう声をかけてくれたが、ぶっきらぼうな言い方だ。

いかにも自分の仕事をとられ、不機嫌な様子だった。

彫大海と彫光喜は梨奈の道場での初仕事を喜んでくれた。

梨奈は使う予定の針とチューブを洗剤で洗い、オートクレーブにかけた。

私も師匠のように、針などをあらかじめ滅菌しておいて、殺菌消毒剤に浸しておこうかしらと考えた。

そうすれば突然彫ることになっても、慌ててオートクレーブにかけなくてもよい。

いや、それよりオートクレーブにかけるとき、滅菌パックに入れておくほうがいいかもしれない。

「お待たせしました。どうぞお入りください」

準備ができて、梨奈は客を仕事場に案内した。

同意書には、木内真理子 23歳 会社員と記入されていた。

来月22歳になる梨奈より、少し年上だ。

女性客なので、彫甲が施術しているベッドとの間にカーテンを引いた。

真理子にフリースのジャケットとセーターを脱いでもらった。

梨奈はエステベッドに洗濯したばかりのバスタオルを敷いた。

彫甲の道場では、ベッドをラッピングしない。

施術の前後にアルコールを噴霧して、拭くだけだ。

いくらきれいに洗ったバスタオルとはいえ、梨奈にとってはそのことが少し気がかりだった。

衛生面については、ピオニーやフェニックスに劣っている。

バスタオルを洗濯するのは梨奈の仕事で、洗う前には塩素系漂白剤に二時間ほど浸して除菌する。

梨奈は施術する部分をはだけてもらい、グリーンソープによる洗浄をした。

それからへその下に牡丹の花を転写した。

真理子は将来蝶を足したいと言うので、そのスペースを空けて、やや右寄りの位置にした。

右の方に、虫垂炎の手術の小さな痕があった。

転写したラインが完全に乾くと、いよいよ施術となった。

彫奈としての、記念すべき初仕事だ。

場数をふんでいる梨奈ではあるが、さすがに緊張した。

ファーストタトゥーを入れる真理子も緊張でガチガチだった。

梨奈はお互いの緊張を解くため、作務衣のズボンを下げて、臀部に彫った牡丹を真理子に見せた。

相手が女性なので、気楽だった。

「これ、私が初めて彫ってもらった牡丹です。

その右側に蝶もあります。

木内さんも間もなくこんな感じで、初めてのタトゥーが手に入りますよ」

「すごくきれい。彫奈さんのお尻は、完全にタトゥーで埋まっちゃっているんですね」

真理子は微笑んだ。

おかげで緊張が解けたようだ。

梨奈は施術を開始した。

真理子は痛みに強いのか、針を刺しても、表情を変えなかった。

初めて針を受けたときに、ちょっと顔をしかめた程度だ。

真理子も我慢強い性格のようだ。

二時間ほどで施術が終わった。

順調な初仕事だった。

梨奈はデジタルカメラで、完成した作品の写真を撮った。

真理子は自分の下腹に見とれた。

出来栄えには十分満足だった。

「とうとう念願だったタトゥーが手に入ったのね。とてもきれい。彫奈さん、ありがとう。次はこの横に、蝶を入れてください。今から予約できますか?」

この次に彫るなら、傷が完全に治癒してからのほうがいいからと梨奈はアドバイスし、二週間後の同じ時間を予約した。

師匠に確認したら、その時間帯はブースが空いているから、それでいいと言ってくれた。

師匠はもう彫り終え、応接セットでたばこを吸い、缶ビールを飲みながら休憩していた。

梨奈はそれまでに見本の絵を描いておきますと真理子に約束した。

梨奈は料金の30,000円を受け取った。

ジュンなら二時間で20,000円だ。

ジュンより高い料金を受け取ることは申し訳ないが、道場の取り決めなので、梨奈の一存で勝手に20,000円に値引きするわけにはいかなかった。

ピオニーでは受付に支払いをするので、30,000円もの代金を直接もらったのは初めてのことだ。

梨奈はとても嬉しかった。

ただ、このうち四割の12,000円は道場に渡さなければならない。

残りが梨奈の収入だ。

彫甲は四公六民と昔の年貢制度のような言い方をしていた。

梨奈は真理子を送り出してから、二階に上がっていった。

彫大海と彫光喜が、

「どうだった?」

と結果を聞きに来た。

梨奈はデジカメの液晶モニターを見せた。

「いいじゃないか、彫奈。うまくできてる。はっきり言って、俺よりうまいよ。この調子でがんばれよ」

彫大海が梨奈を褒めた。

彫光喜も梨奈のデビューを祝福してくれた。

すでに閉店時間を回っている。

梨奈は彫光喜と、急いで道場を閉める準備をした。

翌日、梨奈は彫光喜に菊の花を彫った。

騎龍観音の周りに菊の花をちりばめる。

蓮華座に座った観音菩薩を、龍が取り巻いている図柄だ。

左肩に龍の頭があるので、空いているのは右肩と左右の腰の上、そして臀部だ。

全体のバランスを見るために、彫光喜には裸になってもらった。

梨奈はすでに性体験をしており、男性の裸を見たことが何度もあるとはいえ、心から愛する人の裸を見て、興奮を押さえるのに苦労した。

彫光喜も梨奈に裸を見られるのが恥ずかしそうだった。

客と彫り師という関係ではなく、愛し合うもの同士、感情を抑えるのは難しかったが、他人に悟られてはならない。

彫大海なら黙認してくれそうだが、師匠と彫青龍に知られることは絶対に避けなければならない。

梨奈はほとばしる感情をあえて封印し、菊の花を転写した。

一部、手描きで菊に波を重ねた。

花全体を入れるだけのスペースがないので、どれもが部分的に騎龍観音の絵にかかっている。

しかしメインの図柄を飾るためのものなので、それでかまわなかった。

「いいじゃないですか。これで頼みますよ」

彫光喜は姿見を見て、転写された絵を確認した。

梨奈は筋彫りにかかった。

落ち着かなくては、ラインが震えてしまう。

愛する人にぶるぶる歪んだ、ぶざまな絵を彫るわけにはいかない。

梨奈は以前ピオニー店長の和美に教えてもらったように、腹式の深呼吸を繰り返したあとに、下腹にぐっと力を入れた。

これを何度も実行したら落ち着いてきた。

梨奈は慎重に針を運んだ。

最初はいつもより慎重になったが、やがて自分のペースを取り戻した。

三時間もかからず、筋彫りは終了した。

追加した菊は全部で六輪だが、どれもが部分的なもので、それほど時間はかからなかった。

彫り終わり、光喜は姿見で背中などに彫ってもらった菊のラインを食い入るように眺めた。

彫甲が彫った騎龍観音の筋よりは細めだが、震えやかすれなどの瑕疵がない、きれいなラインだった。

梨奈のラインの美しさは、師匠にも引けをとらなかった。

次は雲や波、稲妻を合わせ、額彫りのためのデザインを考案しなければならない。

額彫りに関しては師匠や兄弟子から基本を教わっていた。

梨奈はどのようにラインを入れるか、頭の中で構想を練った。

夕食後、今度は彫光喜が梨奈の腕に、黒いぼかしを入れた。

昨日、左手首に彫ったばかりなので、今回は右手首にした。

今日は恋人同士、お互いの肌に彫ったり彫られたりの、記念すべき日だった。

二人は道場を閉めたあと、道場から遠く離れたファミレスで待ち合わせることを示し合わせた。

喫茶店だと、遅い時間には閉店してしまう。

梨奈はバイクギャングの仲間たちとよく行った、中区のファミレスを提案した。

しかしそこだと客など知った人に会わないとも限らない。

万一のことを考えて、もっと離れたところにしたほうがいいと彫光喜が慎重を期した。

「もし知ってる人に会って、二人のことをツイッターなんかに書かれたら、大変ですからね」

「そうですね。私も前にそれでひどい目に遭いました」

それで前に政夫や七海と会った高蔵寺のファミレスで会うことにした。

梨奈は地下鉄とJR中央本線で高蔵寺まで行った。

駅からファミレスまで、歩くとけっこう距離があるので、駅まで彫光喜がクルマで迎えに来てくれた。

梨奈が高蔵寺駅に着いてしばらくすると、彫光喜から「今南口に着きました」

と電話が入った。

夜遅い時間なので、道が空いていたため、スムーズに走れたとのことだった。

「今日はお互いの肌に彫り合えて、嬉しかったよ」

「私もよ。伸吾さんの裸を見て、私、自分の気持ちを抑えるの、すごく苦労したの。ねえ、私、もう我慢できない。今夜はどこかで泊まらない?」

二人は道場で交わす丁寧な言葉遣いではなく、恋人同士の話し方になっていた。

「我慢できないのは俺も同じさ。でも、今はまずいよ。前にも言ったことがあるけど、師匠は人の心を読むことにすごく敏感なんだ。ここで二人が関係したら、ばれる可能性が高くなる。それだけは避けなければならない。だけど師匠は一人前と認めれば恋愛を許すと言っていた。お互いそれまで待とう」

「だけど、それまで待てと言われたら、私、悶え死んじゃいそう」

「でも俺たちはお互いの肌に、自分たちの愛の証を刻み合うことができるじゃないか。俺、梨奈の身体に墨を入れてるとき、一針一針、俺自身の愛情を注いでいたんだ」

「私だってそうよ。伸吾さんに初めてラインを彫ったとき、私のすべてを伸吾さんの肌に……」

ここまで言うと、なぜか梨奈は涙がこぼれてしまった。

悲しかったのではない。

伸吾へのあふれる愛で、感極まった感動の涙だった。

伸吾は梨奈の涙の意味を理解した。

「一年、いや、半年だ。半年で俺は師匠に認められるだけの腕になってみせる。梨奈はすでにタトゥーでは大海さんやヒゲメガ以上なんだから、和彫りの流儀さえ自分のものにできれば、師匠も認めてくれるよ。その勉強のために、どんどん俺の肌を使ってくれればいい。半年後には、師匠に認められるよう、お互い頑張ろう。そして将来、二人の道場を持たせてもらおうよ」

そして二人は初めての口づけをした。

それ以来、梨奈と彫光喜は、お互いの肌を彫るときには、自分が持てるすべてを相手にぶつけた。

それは真剣勝負の愛だった。

二人の施術を見た彫大海が、

「お、最近気合いが入ってるね。頑張ってるじゃないか」

と感心した。

バイクギャングの仲間たちは、

「梨奈、最近いい顔をしてる。タトゥーも恋も頑張ってるな」

と声をかけてくれた。

また、黒く染まりつつある梨奈の腕を見て、

「いよいよ彫り師の身体になったな」

と驚いていた。

最近は以前のようにしょっちゅう会うことはできないが、メールなどで連絡を取り合っている。

彫甲は女性客が来ると、ときどき梨奈に仕事を回してくれた。

梨奈は収入が少しずつ増えてきた。

前回、へその下に牡丹を彫った真理子は、その左側に蝶を入れに来た。

真理子は二度目の施術を終え、次はお尻にも入れたいという。

真理子は梨奈の全身を飾るタトゥーに憧れていた。

彼女はお尻全体にいくつもの牡丹を入れることを希望して、予約した。

その牡丹は、黒いラインで縁取られているものではなく、ふわっと浮き出るような感じにしてほしいと注文した。

梨奈の太股にも、そのタイプの牡丹が入っている。

「それだけ彫ると、社内健診でも見つかる恐れがあるけど、大丈夫ですか?」

梨奈が念を押すと、

「はい。サロンパスを貼るなど、何とかごまかします。万一見つかれば、開き直ります」

と真理子は応えた。

真理子は今は人目に付きにくいところだけで我慢するといっている。

しかし、やがて全身に進みそうな予感がした。

真理子は何となく梨奈に似ている感じがする。

彫っている間、彼女は恍惚とした目つきをしていることに、梨奈は気づいた。

梨奈自身も彫ってもらっているとき、性的な快感を味わったことが多々あるので、真理子のその気持ちがよく理解できた。

自分の客になってくれるのはありがたいが、あまり大きく彫ってしまうのも心配だった。

師匠や彫青龍は、客にどんどん彫るように仕向けろと言う。

けれども梨奈としては本人とよく話し合い、十分納得してもらった上で彫りたかった。

ある土曜日、彫光喜は師匠に呼ばれた。

待合室に下りていくと、まだ20歳前ぐらいの若い男性に引き合わされた。

「光喜。こいつは金がないけど、入れ墨を彫りたいそうだ。おまえ、一時間3,000円で彫ってやれ。図柄なんかは上で相談しろ。もし手伝いが必要なら、彫奈にアシスタントを頼んでいいぞ」

彫甲は彫光喜に経験を積ませるため、その少年の申し出を受け入れた。

梨奈が手伝うことを師匠が認めてくれたことも、光喜にとっては嬉しかった。

彫光喜はその少年を連れて二階に上がった。

梨奈は上の部屋でその少年を見た。

彼には記憶があった。

「あら、あなた、確か疾風韋駄天会にいた……」

「あれ? ひょっとして、牡丹さん?」

記憶の中の梨奈は髪が長かったので、丸刈りでバンダナを巻いている女性が梨奈だとはわからなかった。

声をかけられて、初めて気がついた。

「俺、川崎紀正といいます。ノリと呼んでください。あのときは失礼しました。牡丹さん、今ここにいるんですか? 髪、短く切っちゃったんですね」

紀正とは去年の一〇月、大名古屋タトゥー大会で会って以来だった。

赤羽海岸では、主に政夫と応戦していた。

「彫奈、知ってるの?」

と彫光喜が尋ねた。

「ええ。ちょっとした知り合いなの」

紀正は最近、名古屋の南東にある、刈谷市の長瀬組という土建会社に就職したことを梨奈に告げた。

金髪だった髪は、就職して黒髪に戻している。

鼻や口元に開けていたピアスも、耳以外は外していた。

「俺もいつまでもゾクやっていられませんから。おかんに泣かれちゃったし。真面目に働きたいからと言って、グループ、抜けさせてもらいました。疾風韋駄天会は正業に就くから抜けたいと言っても、他のグループみたいにリンチに遭ったりせず、気持ちよく辞めさせてくれますからね」

紀正が就職した会社には、元暴力団員で、今は更生して真面目に働いている人が何人もいて、彫り物を入れている人が多い。

そんな人たちの彫り物を見て、紀正自身も彫り物を背負ってみたくなった。

夏の赤羽海岸で出会った、梨奈の美しいタトゥーにも憧れていた。

しかし給料は安く、とても大きな彫り物を入れる金銭的な余裕はなかった。

そのことを会社の先輩に話すと、彫甲入れ墨道場なら、若い彫り師の練習台ということで、格安で彫ってくれると教えてもらい、刈谷の寮から、オートバイを飛ばしてやってきた。

「でも、牡丹さんがここにいるとは、知りませんでした」

「今は牡丹ではなく、彫奈という名前でやってるの」

「へえ、お客さん、彫奈の知り合いだったんですか。

偶然ですね。

それなら、腕によりをかけて彫ってあげなきゃ」

「彫光喜さん、腕は確かだから、安心して任せられますよ。私も今腕に牡丹など彫ってもらってるの」

梨奈は作務衣の袖をまくって、紀正に腕の彫り物を見せた。

左腕の彫り物は、もうずいぶん色が入っていた。

梨奈の知り合いということで、彫光喜と紀正はすっかり打ち解けた。

まず免許証で年齢確認をして、コピーを取った。

紀正は19歳なので大丈夫だ。

彫甲は少し前に、ある組織の舎弟だからと頼まれ、18歳未満の少年に彫ってしまったことがある。

このとき、梨奈も彫光喜もはたでやりとりを聞いていて、まずいんじゃないかなと思いながら、師匠がやることには口出しできなかった。

今のところ問題にはなっていないが。

このとき、万一18歳未満の未成年に刺青を彫ったことで摘発され、彫甲入れ墨道場が閉鎖になったら、彫光喜と梨奈は二人でスタジオを開こうと話し合った。

スタジオは大曽根に近い、今彫光喜が住んでいるアパートを使用して、梨奈の鶴舞のアパートに二人で住む、などと具体的なことも話した。

鶴舞だとタトゥースタジオが多い大須に近く、客が大須に流れて行ってしまいそうだ。

しかし逆に大須に近いことがメリットになるかもしれない。

まあ、今から捕らぬ狸の皮算用もないから、とその話は切り上げた。

彫光喜がどんな図柄がいいか希望を訊くと、

「やっぱりいれずみなら龍っすよね。胸から腕にかけて、龍をお願いしたいんですが」

と応えた。

彫光喜は紀正の左の胸から肩、腕にかけて、グリーンソープで洗浄した。

「びしっと真っ直ぐ立ってください」

彫光喜は紀正に指示した。

「龍は膝の上までにしといてください。会社の先輩が、膝より下には伸ばすな、と言いますので」

紀正は肘と膝を言い間違えた。

「肘までですね。了解しました」

筆ペンで紀正の胸に龍の頭を描いた。

非常に手慣れた筆さばきだった。

「光喜さん、すごいですね。フリーハンドで龍を描いちゃうなんて」

梨奈は軽快に筆ペンを運ぶ彫光喜を賞賛した。

「彫奈が牡丹を何百枚も練習してすらすら描けるように、龍は俺のおはこなんですよ」

彫光喜は頭を描き終えて、龍の胴にかかった。

龍の下絵は20分ほどで完成した。

「鱗はまだ描いてないですが、こんな感じでどうですか? 俺の龍の中では、最もスタンダードなやつです。気に入らなければ、また何度でも描き直しますよ。龍の顔もいろいろ変えることができます」

彫光喜は紀正に尋ねた。

姿見で胸から腕にかけての龍を見て、

「かっこいいっす。これ、お願いしたいです」

と紀正は満足した。

「本当にこれでいいですか? 一度彫ったら、もう変更はきかないので、よく考えてくださいね」

彫光喜にそう言われ、紀正は梨奈から手鏡を借り、姿見と二枚の鏡を使って、絵を何度も眺め回した。

腕を回して、直接見たりもした。

「はい。これでいいっす。ばっちりです」

「それじゃあ、消えないように清書しますから。その前に、この同意書を書いてください」

彫光喜は同意書を手渡した。

彼は紀正が同意書を読んでいるうちに、針やチューブなどの器材をオートクレーブにかけた。

彫光喜は肌用のマーキングペンで、筆ペンのラインをなぞり、清書を始めた。

今度は時間をかけ、慎重に描いていった。

特に鱗は大きさや形が不揃いにならないように、気を配った。

清書をしているうちにオートクレーブの加熱が終わったので、梨奈が乾燥に切り替えた。

「龍はどんな色にしますか?」

清書をしながら、彫光喜は訊いた。

紀正はしばらく考えてから、

「やっぱ黒がいいっす。黒一色でお願いします」

と応えた。

「黒の濃淡だけですね? 赤などの色は使わなくていいですね?」

「はい。黒の濃淡だけでお願いします」

下絵が完成し、いよいよ彫る段となった。

彫光喜は座椅子に紀正を座らせた。

客に胸から肘までかかる龍を彫るのは、光喜にとって初めての経験だった。

梨奈の腕に何度も彫っているとはいえ、さすがに少し緊張した。

彼は梨奈がいつもやっているように、大きく深呼吸をして、下腹に力をこめるという儀式をした。

それで落ち着いてきた。

梨奈と同じことをしたという心理的効果も大きかった。

梨奈が見守る中、彫光喜は施術を始めた。

彫る彫光喜が真剣なら、それを見守る梨奈も真剣に光喜の手元を見ていた。

他人の施術を見学するのも、大切な勉強だ。

初めての施術に、政則はけっこう痛がったが、彫光喜は紀正を励ました。

やがて痛みには少し慣れたようだった。

途中で夕飯の準備の時間となったので、梨奈は場を離れた。

自分の仕事を終えた彫大海が、師匠に言われて様子を見に来た。

「光喜もうまくなったな。俺もうかうかしとれんよ」

彫大海は彫光喜の筋彫りを見て、褒めた。

彫青龍なら少しでも瑕疵があれば、客の前でもかまわずあげつらう。

そんなことをされれば、彫っている本人は自信をなくすし、客も不安になる。

彫甲が彫青龍を見に行かせなかったのは、それがわかっているからだった。

はちゃめちゃ師匠でも、その程度のことはわきまえている。

ときどき休憩を挟み、三時間ほどで筋彫りができあがった。

龍は細かい鱗があるので、時間がかかる。

「筋は終わりました。今日はここまでにしておきましょう」

筋彫りが完成したというので、梨奈も調理の手を休め、彫光喜のラインを見せてもらった。

夕飯の調理はほぼできていた。

「光喜さん、きれいですよ。素晴らしい龍です」

梨奈は和柄に関しては、自分より彫光喜のほうが上だと思っている。

紀正は鏡に映したり、自分の目で直接見たりして、自分の肌を飾っている龍に見とれていた。

来週の土曜日は仕事だからと言って、日曜日に次回の予約を入れた。

「今度で完成ですか?」

「いや、龍は細かいから、あと二回ぐらいはみてもらいたいですね」

「完成が楽しみっす。それじゃあ、来週お願いします。牡丹さんも、よろしくお願いします。韋駄天会のメンバーに、牡丹さんがここにいること、知らせておきます」

紀正は正規の料金の五分の一、9,000円で彫ってもらえたことも嬉しそうだった。

出来栄えを見た彫甲も、

「うん。筋はよくできている。光喜もうまくなってきた。彫奈の胸割が完成したら、おまえにも客を彫らせてやるぞ」

と認めてくれた。

弟子が彫った場合、料金の四割を道場に払わなければならないが、

「今回は安くやったんだから、それを取り上げてもな。光喜が全額取っておけ。何かうまいものでも食え」

と太っ腹なところも見せた。

梨奈はまだワンポイント専門とはいえ、女性を中心にもう何人も彫らせてもらっている。

その技量は彫甲も十分に認めているところだ。

明日は真理子に牡丹を彫る予約も入っている。

今回は安い料金ではあるが、彫光喜も初めて客に彫らせてもらえた。

プロとして認めてもらえれば、二人の恋愛も認めてくれるのでは? 彫光喜も梨奈も、その日が早く来ることを夢見ていた。

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Posted at 2013年06月14日 10時00分