TATTOO COLUMN



第3話 彫師デビュー


▼前回までのあらすじ------------------------------------
親友の七海からタトゥーイベントに誘われた梨奈。仕方なく付いて行っただけのはずが、物珍しさから食い入るように実演を見ている内に、タトゥーに惹かれていく自分に気付く。七海の制止にも耳を貸さず、半ば衝動的に梨奈は臀部に牡丹のタトゥーを彫ってもらう。
職場のアートメイクサロンでの施術練習を通して、その共通点も相まって、梨奈のタトゥーへの傾倒はさらに深まる。そしてタトゥー用品を取り寄せて、自分の脚に針を刺すまでに・・・・
----------------------------------------------

梨奈は七海以外にも何人かの友人に頼んで、アートメイクの実習をさせてもらった。七海にもアイラインの二回目の施術を行い、完成した。

「アイライン入れて、目元がすっきりしたわ。私、ぱっちりした梨奈に比べて、ちょっと眠そうな感じの目だったから」

アイラインに満足した七海は、眉にもやらせてくれた。店長の和美は、アートメイクのスタッフとして梨奈を登用した。

まだ経験が十分ではないので、一人前のアーティストになるためには、これからどんどん経験を積まなければならない。

タトゥーにも挑戦し、色がけっこう残るようになった。しかし、まだ濃淡のむらが多い。タトゥーはまだまだだと思った。

アートメイクの場合は店長や先輩の手ほどきを受けているが、タトゥーは完全な独学だ。

冬のボーナスが入り、梨奈は上前津にあるフェニックスタトゥーを訪問した。自分で下手なタトゥーを彫るばかりではなく、プロにきれいな絵を入れてもらいたかった。

フェニックスに行くのは初めてだ。フェニックスタトゥーは小さなビルの二階を借りていた。

勤務終了後なので、もう七時を過ぎている。

スタジオは夜九時までの営業となっている。栄三丁目にあるピオニーからフェニックスタトゥーまでは、地下鉄で一駅だ。歩いても大して時間がかからない。

「あら、あなた、タトゥー大会のときの」

受付の女性が梨奈に声をかけた。フェニックスのブースで、梨奈にモニターになることを勧めた女性だ。

「今日はどういうご用ですか? ご予約ですか」

「はい。ボーナスが少し入ったから、また絵を増やしてみようかと思いまして」

「ボーナスですか。いいですね。アーティストはジュンがいいですか? コージは今施術中ですが、ジュンは空き時間です」

コージというのは、フェニックスのオーナーである男性アーティストだ。

「はい。前にジュンさんに彫ってもらった牡丹、とても気に入ってますので、またジュンさんにお願いしたいと思います」

受付の女性は、別室で注文された絵の下絵を作っているジュンを呼びに行った。ジュンが受付にやってきて、梨奈に挨拶をした。

「その節はありがとうございました。牡丹のタトゥー、とても満足しています」

梨奈もタトゥーのお礼を言った。

「今日はその牡丹の近くに、蝶を増やそうと思って、相談に来たんです」

ジュンは下絵を描いていた別室に梨奈を案内した。梨奈はパンツを少し下ろして、牡丹のタトゥーをジュンに見せた。ジュンは面長で、ロングヘアをブロンドに染めている。髪はアップにして、ヘアバンドで束ねてある。かわいらしい感じの梨奈に比べて、ジュンは目元がややきついが、整った顔つきだ。耳や小鼻、口元にいくつかピアスを着けている。

「きれいに入っていますね。お尻は座ったりすると、体重がかかるので、ひょっとしたら色が抜けたりするんじゃないかと心配してましたが。それで、次はどこに入れますか?」

「そうですね。牡丹の少し右上の、腰の辺りにしようかと思います」

梨奈は希望する場所を手で示した。そして、見本を見ながら、蝶の形と大きさを話し合った。蝶はアゲハチョウに決めた。今まさに牡丹に留まろうとしている構図だ。先輩の佳枝が左腕に入れている蝶も、飛翔しているアゲハチョウだった。

梨奈の次の休日は、昼間の時間が空いているので、その日の午後一時に予約を入れた。それまでに下絵を準備しておいてくれるそうだ。予約金として五〇〇〇円を支払った。予約金は施術のときに料金の一部として精算される。

予約が済むと、梨奈は自分で彫った脚の桜や四つ葉のクローバー、蝶などの絵をジュンに見せた。プロのアーティストであるジュンに、拙い作品を見せるのは、少し気後れした。

「あれからタトゥーに興味を持って、自分でやってみたんです。アートメイクのマシンで彫ったんで、なかなかうまく入りませんが。最初の桜は、ほとんど色が抜けてしまいました。絵はジュンさんのものを参考にさせていただきました」

ジュンは梨奈が自分で彫ったタトゥーに見入った。

「初めてならこんなものですよ。むしろよくできています。特にラインはきれいに引けていますよ。私なんか、初めて彫ったときはもっとひどかったから。アートメイク用のマシンでも、けっこう使えますよ。私も細かい作業をするときに使うことがあります」

ジュンは黒い作業着のパンツを下ろして、自分が左の太股に初めて彫った、赤い鯉の絵を見せてくれた。

ジュンの太股は自分で彫ったり、修業中の兄弟子の練習に肌を提供したりしたので、タトゥーで埋め尽くされていた。その兄弟子は今大阪のスタジオにいるそうだ。

「これはあとになって直したので、きれいに見えますけど、最初はひどかったですよ。梨奈さんのラインはきれいですが、私なんか初めて彫ったとき、線がぶるぶる震えていましたから。この鯉だって、よく見るとラインが歪んだり、二重になったりしているでしょう。それに梨奈さんは独学でこれだけ彫ったんだから、すごいと思います」

ジュンの言葉に梨奈は励まされた。タトゥーはむずかしいなと思い、少し落ち込んでいた梨奈だが、ジュンさんだって最初はうまくいかなかったのだと思うと、また頑張ってみようという気持ちになった。たとえジュンの言葉に、多少のお愛想が含まれているとしても。

「実は私、アートメイクをやっているんですが、タトゥーにも惹かれているんです。私でもタトゥーアーティストになれるでしょうか?」

梨奈は思いきってジュンに尋ねてみた。

「そうですね。それは梨奈さん次第でしょうね。でも、私はいけると思いますよ。もしタトゥーアーティストになりたいなら、どこかのスタジオに弟子入りするといいでしょうね。うちは今は募集していないけど、見習いを募集しているスタジオがありますから、そういうところで勉強させてもらったらどうですか?」

今はピオニーのアーティストとして、忙しくなりそうなので、タトゥースタジオに弟子入りすることはできそうにないけれど、将来の選択肢の一つとして考えてみたい。まずは自分の肌に彫って独学してみよう。タトゥーマシンも、インターネットで調べると、そんなに高くはないので、マシンも揃えてみるつもりだ。

そのことを伝えると、ジュンは「梨奈さんはまだ若いから、慌てないで、じっくり考えてみるといいですよ。今せっかくアートメイクの仕事をしてるんだし。私は二五歳でここに見習いとして入って、今六年目です。あ、年がばれちゃいました。もう三十路の女です」と言って、ぺろりと舌を出した。

ジュンはフェニックスタトゥースタジオに入る前は、場末のクラブのホステスをしていた。二三歳のときに腕に天使の絵を彫って、それ以来タトゥーにのめり込んでいったそうだ。

梨奈は次の火曜日の午後一時前に来ますから、と約束して、スタジオを辞した。
 
ジュンに二つめのタトゥーを入れてもらって以来、梨奈のタトゥーへの傾倒はますます顕著になった。

仕事が休みの日はタトゥーの練習をする。コイルを使った専用のマシンは音が大きいので、母親が留守のときに練習をしている。

不況で父の収入が減ってしまったため、母は平日の昼間、パートで出かけている。梨奈も給与の一部を家に入れ、少しは家計を助けている。

アートメイクのスタッフとなってから、少し給料がアップした。また、アートメイクを施術した人数により、歩合制で手当が増える。

梨奈の左右の脚はかなりタトゥーが増えてきた。これ以上増やせば、母や職場にタトゥーがばれるかもしれない。職場の人たちはお尻に入れた牡丹のことは知っているとはいえ、自分で彫っていることは話していない。

練習でどんどんタトゥーを増やし、もうファッションとしてのタトゥーの領域を超えてしまった。冷静になって考えると、ちょっとやり過ぎてしまったかなとも思う。

七海に見せたら、あきれられてしまった。それでも七海は今までどおり付き合ってくれるのがありがたかった。七海の彼氏の政夫が梨奈のタトゥーを見たがっているという。

もうかなり腕は上達し、簡単なワンポイントぐらいならこなせるようになった。ただ、やはり指導者がいないので、梨奈のタトゥーは我流だった。ぼかしやグラデーションをつけることはできなかった。

仕事では、少しずつアートメイクの客を任せてもらえるようになった。スクール生の講師を務めることもある。
 
四月になった。梨奈がピオニーに勤めてもう一年になる。梨奈は今の仕事を失いたくないと思った。しかしそれにもまして、将来アートメイクだけではなく、タトゥーの仕事をやりたいという気持ちが強くなった。

女性の顔を美しくデザインする仕事はやりがいがあるが、人の肌を美しく彩ることも魅力がある。

そんなタトゥーへの思いが募り、梨奈は背中一面をタトゥーで飾ってみたくなった。

自分の将来への不安も多少あったものの、すでに脚にかなりたくさんタトゥーを入れてしまった。これだけ入っていてはもう後戻りはできない。


梨奈はジュンに連絡し、相談に行った。

昼休みに電話をかけると、今夜八時過ぎなら時間が取れるというので、仕事の帰りに
梨奈はフェニックスタトゥーに寄った。

梨奈はまず自分が彫ったタトゥーを見せた。左右の脚や足の甲にぎっしりバラ、蓮、蝶、金魚、鯉、ツバメ、星など、梨奈の好みのかわいい図柄が増えている。最初に彫った、色が抜けた桜も直してある。

「わぁお、すごい。やりましたね。あれから何ヶ月も経っていないのに、けっこう上達してるじゃないですか。プロとしてやっていくためにはもっと練習しなければいけないけど、でもいい線行ってますよ」

ジュンは独学なのに、短期間でかなり上達した
梨奈に驚いた。

「太股はジュンさんにきれいにやってもらいたいので、残しておきました」

「それでは太股に彫りますか?」

「いえ、先に背中一面にやってみたいと思います」


梨奈は背中に大きく彫りたいと希望した。

「背中ですか。どんな図柄を考えてますか?」

「そうですね、私としてはきれいなものを入れたいと思っています。羽衣とか、観音様とか」
「和柄が希望なのですね。私はどちらかというと、洋物が得意なので、もし和柄を希望するなら、私よりオーナーのコージのほうがいいと思いますよ」

「いえ、和柄だといかにも怖い人みたいだから、和柄がいいというわけでも……。とにかくきれいな絵を背中に大きく入れてみたいんです」

ジュンは今まで背中に彫った絵の写真を
梨奈に示した。背中に彫った作品は、backと分類されたアルバムにたくさんあった。

梨奈はアルバムをめくった。ジュンが言うように、和柄はあまり多くなかった。人魚や天使、聖母マリア、ガネーシャ、バフォメット、翼、アニメのキャラクターなど、和彫りとはひと味違った図柄が背中を彩っていた。

鯉や龍、天女や仏像といった和柄もあるが、本格的な和彫りとはやや趣が異なり、ジュンの個性に貫かれていた。大輪の菊や牡丹を背中一面に散らした図柄もよかった。

しかし、その中で最も
梨奈の目を引いたのは、華麗に背中を舞う鳳凰の絵だった。

「この鳳凰、いいですね。スタジオの名前もフェニックスだし。天女や花を背中一面に散らすのもきれいです」

厳密には鳳凰とフェニックスは同じではないが、ジュンはスタジオを象徴する図柄として、力を入れている。

「それなら、その三つを全部取り入れて、天女の頭上を鳳凰が飛び、余白に牡丹を散らす、なんていう図柄もできますよ。でも、ちょっと欲張りすぎかな。それでは天女も鳳凰も中途半端な大きさになってしまうから。鳳凰なら鳳凰を背中いっぱいに入れ、空いている部分に牡丹の花を散らす、というほうがいいかもしれませんね」

二人はいろいろ話し合い、結局ジュンの提案どおり、背中いっぱいに鳳凰と牡丹の花を入れることになった。これから下絵を作るので、施術は二週間後の火曜日となった。ピオニーの定休日だ。

それだけ大きいものを彫ると、費用も五〇万円ほどかかるという。


梨奈は自動車を買うために貯めているお金を充てることにした。クルマは欲しいが、しばらくお預けだ。

必要なときには、父親の自動車を借りればよい。父はカローラのセダンに乗っている。
梨奈にとっては、クルマよりタトゥーのほうが優先順位が上だった。
 
次の日曜日、梨奈は久しぶりに休みを取った。そして七海、政夫と会った。梨奈もアートメイクのスタッフとなり、土日はめったに休暇を取れない。土日や祝日はアートメイクの予約が多い。

海を見に行こうということになり、政夫のクルマで三人は知多半島にドライブに出かけた。

「もっといいクルマを欲しいけど、今の稼ぎじゃ、これが精一杯だよ。ダチが新しいクルマ買ったんで、安く譲ってもらったんだ」

政夫は中古の赤いデミオに乗っている。一つ前のモデルで、二代目のデミオだ。

「アマチュアバンドやりながら、仕事してるんだから、これでけっこうじゃない? デミオ、カッコいいよ。十分走るし」

助手席の七海が言った。梨奈は後部座席に乗っている。政夫は正規の社員ではなく、契約社員なので、給料はあまり多くない。

「マサさん、バンドのほうはどうですか?」と梨奈が訊いた。

「ときどきライブハウスなどで演奏させてもらってるよ。多少のギャラは貰えても、それじゃとても生活はできないよ。この前CDを出して、ネットで販売したら、けっこう反響よかったぜ。一〇〇枚完売してね。去年のタトゥーイベントに来てくれた人からも、問い合わせがあったしな」

「それはよかったですね。あのイベントでのライブ、すごくよかったから」

「あのイベントに行ったせいで、梨奈、タトゥーにはまっちゃったんだよね。自分の脚、タトゥーでいっぱいにしちゃったし」

「七海から聞いたけど、梨奈、自分でタトゥー彫ってるんだって? あとで見せてくれよな。人がいない海辺でならいいだろう?」

政夫は梨奈のタトゥーに興味津々だった。一月二日に七海と三人で、政夫のデミオで伊勢神宮に初詣に行き、それ以来政夫とも親しく話すようになった。

最初は梨奈さんと呼んでいた政夫だが、今は呼び捨てにしている。言葉遣いも友達言葉だ。梨奈は三歳年上の政夫に対し、丁寧な言葉遣いをしている。

タトゥー大会でモヒカンだった髪は、今はサラリーマンらしい髪型になっている。

いくらロックバンドをやっていると断ってあっても、モヒカン頭では仕事をするときに変な目で見られるので、イベント後に丸刈りにした。刈り上げた髪は、もうすっかり伸びている。腕のタトゥーは長袖の服で隠している。

ライブのときには、バイクギャングロッカーズの制服ともいえる、特攻服で身を包んでいるが、ふだんはカジュアルな服装だ。梨奈と七海も、暖かくなってきたので、ティーシャツの上にニットのジャケットなどを羽織っている。下はパンツルックだ。
 
デミオは国道19号線から247号線を通り、西知多産業道路に入った。産業道路は無料の一般国道ではあるが、片側二車線の自動車専用道路で、スピードを出せる。政夫は制限時速七〇キロのところを、ときに一〇〇キロを超えるスピードを出した。

「そんなにスピード出して、大丈夫? 高速道路じゃないんだから。覆面パトにでも捕まったらやばいよ。オービスがあるかもしれないし」

「そうだな。一発免停じゃ、しゃれにならんからな。今日は梨奈もいることだし、もう少しおとなしくするか」

七海にたしなめられ、政夫はスピードを落とした。

政夫は産業道路を出たあと、国道155、247号線を南に走った。野間の辺りで海沿いに出た。

「伊勢湾ね。きれい」

海を見て
梨奈は感激した。ほどなく野間埼灯台に着いた。近くのカフェレストランで休憩してから、灯台を見に行った。

灯台は高さ一八メートル、夕日でオレンジ色に輝く伊勢湾をバックに眺めると美しい。今は昼間なので、青い空と海、白い雲がバックだ。

沖には大きな船が浮かんでいる。名古屋港や四日市港など、大きな港湾がある伊勢湾は、船の航行が多い。中部国際空港に離着陸する飛行機の姿もあった。日曜日なので、カップルが何組もいた。

「野間灯台って、恋愛成就の灯台なんでしょう。ロマンチックね。せっかくマサと来たんだし、南京錠持ってくればよかった」

灯台を囲む柵に、恋人同士で南京錠を掛けると、恋愛が成就するという。

「神社でもないのに、何で恋愛成就なんだ? こんなの、ただの灯台じゃん。灯台の神様でもいるんか?」

「もう、マサったら。相変わらずKYね。青い海に白亜の灯台なんて、ロマンチックじゃない。そんな風情ないんじゃ、いい曲書けないよ」

今年の正月に、同じメンバーで伊勢神宮に初詣に行ったついでに、波切の大王崎まで足を伸ばした。

大王埼灯台はリアス式海岸を見下ろす高台に設置してある。

上まで登ることができ、そこからの遠州灘、熊野灘を望む眺めは雄大だ。まさに地球が丸いことを実感できる。

高所恐怖症の政夫は、灯台に登ることを怖がり、七海に白い目で見られていた。

野間埼灯台は海抜〇メートル近いところに建っており、大王崎に比べれば、平面的な印象は免れられない。しかし野間埼灯台には情緒的な雰囲気が漂っていた。

三人は灯台の南の浜辺を歩いた。少し歩くと、海水浴場になっている。灯台付近はカップルが多かったが、この辺りまで来るとあまり人がいない。夏は海水浴客でいっぱいだろう。

「梨奈、脚に彫ったタトゥー、見せてくれないか」

政夫が梨奈に頼んだ。政夫がタトゥーを見たがっていることを七海から聞いていたので、梨奈はジーパンの裾をまくった。

足首から膝にかけて、手が届かないふくらはぎ以外、自分で練習として彫ったタトゥーがぎっしり入っている。靴と靴下も脱ぎ、足の甲に入れたバラや蝶も見せた。

「おお、すげぇ。これ、全部梨奈が自分で彫ったんか?」

政夫は梨奈のタトゥーに見入った。以前見せてもらったことがある七海も、改めて感心した。

「まだプロのアーティストさんみたいにはうまく彫れませんけど」

「でも、トーシローでもこれだけ彫れればすごいがや。俺も梨奈に彫ってもらおうかな」

タトゥーを彫ってほしいという政夫の申し出に、梨奈は驚いた。

「いえ、いくら何でも人様の肌に彫るだなんて。まだとてもそんなこと、できません」

梨奈は辞退した。それでも政夫は、小さなものでもいいから、ぜひ記念にやってくれ、と依頼した。たとえ失敗しても、文句は言わないからと約束した。

それで梨奈も「それじゃあ、小さなワンポイントを」と了承した。しかし梨奈は内心、他人に彫れることが嬉しかった。ただ、施術する場所が問題だった。

梨奈はまだ両親にはタトゥーのことを隠している。脚に入れたので、もうスカートははけない。最近の梨奈はいつもパンツルックだ。

背中に鳳凰を入れれば、やがてはタトゥーがばれるだろうが、ある程度鳳凰の施術が進むまでは、内緒にしておこうと思っている。

今気付かれると、背中に入れることに猛反対されそうだ。これまで入れたタトゥーも消すように命じられるかもしれない。

しかし、背中一面に彫ってしまえば、もう消すことも不可能だ。そうなれば、両親は梨奈のタトゥーを認めざるを得なくなるだろう。

梨奈はそこまで腹をくくっていた。

「そうか。梨奈はまだ親父さんやお袋さんにはタトゥーのことは隠しているんだな」

「はい。私は平日が休みなので、昼間両親が留守のときに、練習してるんですが」

「俺の仕事は日曜休みだけど、日曜日に彫ってもらうわけにもいかんな。日曜日はバンドの練習してるし。そうすると、仕事が終わった平日の夜、ということになるか。それだと梨奈の家でやってもらうこともできんな」

「マサさんのバンド、どこで練習してるんですか?」

梨奈は興味深げに尋ねた。

「練習は上前津のビルの賃貸スタジオを借りてるんだけどな。あまり広くないけど、会員になると、けっこう安く借りれるんだ。いっぺん練習見に来ないか? 七海はときどき来てるんだぜ」

「ぜひ行ってみたいです。でも、日曜だと夜七時ごろになっちゃいますけど」

「そうか。練習は六時ぐらいで終わって、そのあとみんなでめし食いに行くからな」

上前津なら梨奈が勤めるピオニーから近い。しかし仕事が終わってから駆けつけても、遅くなってしまう。政夫は残念そうに言った。

「そうだ、スタジオでタトゥー彫ってくれよ。仕事が終わったあと、梨奈にスタジオに来てもらって、そこで彫ればいい。スタジオはいつも六時までしか申し込んでないけど、準備や打ち合わせ用に会議室を借りることもできるでな。小さいほうの会議室なら料金も安いし」

梨奈はスタジオの会議室で施術させてもらえるなら大丈夫かなと思った。そこならそれほど不衛生な環境ではないだろう。

梨奈は滅菌用のオートクレーブを所有していないので、機材の消毒には圧力鍋を使用している。梨奈が使っている鍋は、説明書によれば一二〇度以上の高温になるので、正しく使えば、オートクレーブに近い滅菌効果を期待できる。

タトゥーマシンの針は、自分に使うときは、圧力鍋で滅菌して、再利用している。しかしそれはあくまで自分用にと限定していることであって、他人を彫る場合は、使い捨てにしなければいけない。それは衛生上、当然のことだ。

新品の針でも、使用する前にマシンのチューブと一緒に滅菌する。アートメイク用マシンは滅菌済みのものを密封してあるので、改めて滅菌する必要はない。

「スタジオではガスコンロ使えますか?」

「ああ、給湯室があるで、そこで使えるぜ。何で?」

「彫る機材を滅菌するとき、私は圧力鍋を使うから、ガスが使えないと、衛生上まずいんです。でも、使えれば大丈夫です」

「そんなら大丈夫だ。俺たち、よくお湯沸かしてカップ麺なんか食ってるからな」

政夫はタランチュラや蛇などの不気味系の絵を希望したが、梨奈はまだタトゥーを始めて間もないので、あまり複雑な絵を彫れないとやんわり断った。蜘蛛や蛇は苦手だった。

「マサ、どくろとかサソリみたいに気味がわるいのばかりだから、次はきれいな絵にしたら? 不気味な絵ばかりだと、エッチするとき、やっぱりちょっと引いちゃうから」

七海は臆面もなく、政夫に意見した。政夫は梨奈の左脚にある鯉の絵が気に入ったようで、右腕に鯉を彫ることに決めた。

「私も梨奈に小さな星かハートでも彫ってもらおうかな」

「アートメイクとは違うんだから、七海はやめといたほうがいいんじゃない? マサさんはもうタトゥーが入っているからともかく」

「そうね。小さなものならいいかな、とも思うけど、今すぐ決めるんじゃなく、もっと考えてからにしたほうがいいかもね」

いろいろ話し合った結果、もし会議室を借りることができれば、施術は次の日曜日、上前津のスタジオで、ということになった。

「梨奈、もういっぱしの彫り師になったみたい」

「やめてよ、七海。彫り師だなんて。やっと半人前のアートメイクのアーティストになったかな、ていうところなのに」

梨奈は彫り師と言われるのが照れくさかった。
 
それから三人は師崎まで走った。

デミオを師崎港近くの有料駐車場に駐め、知多半島先端の羽豆岬を散歩してから、高速船で篠島に渡った。三人とも篠島まで渡るのは初めてだった。

港の近くの観光案内所で、篠島の観光用パンフレットをもらった。

三人はそのパンフレットの案内を見ながら、島を回った。途中でレストランに入り、魚料理を食べた。新鮮な魚はおいしかった。政夫がおごると申し出たが、七海が「私より給料低い契約社員なんだから、無理するな」と辞退し、割り勘となった。

政夫はバンド活動をするため、仕事に縛られたくないといって、正社員になることを拒んでいた。しかしそれは政夫の負け惜しみでしかなかった。不況の今はなかなか正規雇用への道が険しい。正規雇用されたくても、なれないというのが現状だった。

そんな状況なので、梨奈もできればピオニーでの、アーティストとしての地位を失いたくなかった。タトゥースタジオも以前と比べて依頼が減って、今はけっこう厳しくなったと、ジュンから聞いていた。

島の南部の牛取公園や歌碑公園からの景色がよかった。歌碑公園から見る夕日は“日本の夕日百選”に選ばれている。

しかし残念ながらまだ午後二時ごろで、夕日まで待つわけにはいかなかった。島の南側はけっこう起伏があり、歩くだけで三人は疲れてしまった。

梨奈は持参したコンパクトデジタルカメラで、たくさんの写真を撮った。居合わせた人に頼んで、三人が並んだ写真も写してもらった。政夫と七海はスマートフォンに内蔵されたカメラで写している。梨奈はまだスマホではなく、ガラケーといわれる携帯電話を使っている。

篠島を歩きながら、梨奈は来週の火曜日、背中に鳳凰を彫りに行くことを七海と政夫に話した。

「え、ついに背中までやっちゃうの? 大丈夫? そんなに大きいの彫っちゃったら、もう後戻りできないじゃない」

背中一面に大きな鳳凰と牡丹の花を入れると聞いて、七海が驚いた。

「うん。私、もう一生タトゥーを背負って生きていくことを決意したの。今でもけっこうたくさん彫っちゃってるし。できればタトゥーアーティストになりたいと思っているんだ」

「やっぱり去年、私がタトゥー大会に誘ったのがいけなかったのかなあ」

「そんなことないよ。なんべんも言ってるけど。アートメイクやっていれば、私、きっといつかはタトゥーに興味持ったんだから。それが少し早まっただけ。だから気にしないで、七海」

梨奈は七海のせいではない、と強調した。

師崎港に戻り、今度は知多湾に沿って北上した。知多半島は海の眺めがよかった。

名古屋に戻ったころはもう暗くなっていた。夕食を一緒に食べたあと、地下鉄の駅まで政夫に送ってもらい、三人は別れた。梨奈はガソリン代など払うと申し出たが、「男に恥をかかせるなよ」と、政夫は受け取ろうとしなかった。

「それじゃあ今度の日曜日、会議室取れたら、よろしく頼むな」

「はい。それまでに鯉の下絵を作っておきますから」

来週はアマチュアとはいえ、いよいよタトゥーアーティストとしてもデビューするかもしれないんだ。梨奈の胸は高鳴った。
 
政夫への施術の日が来た。施術をする会議室は、夜七時から一〇時まで借りたとのことだった。梨奈は大きなバッグにタトゥーの道具を入れて出勤した。梨奈はその日、二人アイラインの客を受け持った。

カウンセリングから施術、その後の処理などをして、六時過ぎに退社した。営業時間は午後七時までだが、アートメイクのスタッフは、予約がなければ多少早めに帰ることができるよう、融通してもらえる。

バイクギャングロッカーズが練習に借りているスタジオはすぐにわかった。

そのビルには四つスタジオがある。いつもは一番小さなスタジオDで練習するそうだ。スタジオDの広さは一〇帖ほどだ。梨奈は入り口近くの案内図を見て、第二会議室を目指した。会議室の前で、政夫と七海が待っていた。

まだ七時の時間前だが、鍵を貸してもらえたので、会議室に入ることができた。バンドの他のメンバーは今食事に行っているという。もし梨奈さえよかったら、施術するところを見学したいとのことだ。

何人にも見られていては、梨奈は緊張してしまうのではないかと心配になったが、いやだとは言えなかった。政夫はスマホで、メンバーの一人に、見てもいいぞ、と連絡した。

「食事はまだ?」と七海が梨奈に尋ねた。梨奈は仕事を終えてすぐ駆けつけたので、まだ食べていないと応えた。七海たちもまだだという。近くの牛丼屋で牛丼弁当を頼むことにした。梨奈はタトゥーの準備があるので、七海が三人分買ってくると申し出た。

梨奈は急いで準備をした。給湯室に行き、圧力鍋で機材を煮沸した。三種類の針を、予備を含めて二本ずつ、それから針の形状に合わせたマシンのチューブを三本だ。細かいところを彫るために、アートメイク用のマシンも使う。

会議室に戻り、使用する机や椅子、機材など、血液が付着した手が触れる部分をラップで覆った。梨奈はアートメイクサロンで、衛生管理を徹底しているので、タトゥーを彫るときも同じように気を配った。

七海が牛丼弁当を買ってきてくれたので、先に弁当を食べた。食事をしている間に、バンドのメンバーたちが戻ってきた。

「やあ、この子が女彫り師さんか。なかなかかわいい子じゃないか」

「そういえば、タトゥー大会のとき見たな。確か、ジュンに牡丹彫ってもらっていたよな。よろしく。今度俺にも何か彫ってくれよ」

バンドのメンバーたちは自己紹介しながら、梨奈に一言ずつ話しかけた。今はタトゥー大会でライブを行ったときのような、奇をてらったかっこうはしていないとはいえ、梨奈はむくつけき(?)男たちに囲まれ、圧倒された。他にメンバーの知り合いの女の子が二人いた。

梨奈は重圧には負けまいと気を引き締めた。そして施術の準備をした。準備や食事をしている間、圧力鍋で三〇分以上煮沸したので、機材の滅菌はもう大丈夫だろう。梨奈はやけどをしないよう注意しながら、針やマシンのチューブを取り出した。

梨奈は見本の鯉の絵を取り出した。この下絵はすでに政夫に提示し、了承を得てある。鯉の鱗をきれいに描くのに、けっこう苦労した。転写用のシートはもう作ってある。

梨奈は初めてこのシートを使って転写したとき、表裏を逆にしてしまった。和文タイプ用紙にコピーを取るときに、カーボン紙を敷く順番を間違えたのだ。

裏返しになっていることに気付いたのは、筋彫りを終えたあとだった。右脚の膝の近くに彫った、蝶の図柄だった。前に向けるつもりだったのに、蝶は後ろを向いてしまった。

転写したときは緊張し、裏返しになっていることに全く気付かなかった。このような失敗は絶対しないようにしなければ。

梨奈はまずグリーンソープで政夫の右の二の腕を洗浄した。それから使い捨てのカミソリで、剃毛をする。鯉の転写シートを当て、慎重に位置を決めた。

いよいよ転写だ。薄い和文タイプ用紙が歪まないよう、細心の注意を払った。そしてシートをはがす。緊張の一瞬だ。鯉はきれいに転写されていた。梨奈の小さな手首から指先ぐらいの大きさの鯉だった。鯉の身体の一部に波を重ねてある。

政夫には椅子にかけてもらい、右手首を机の上に置いた。梨奈は初めて他人の肌に針を下ろした。折りたたみ式の椅子は高さが調節できないので、やや体勢が苦しかった。小柄な梨奈に比べ、政夫は背が高い。

不思議と落ち着いていた。もっと激しく緊張するだろうと思っていたのに。むしろ転写シートを使っていたときのほうが、胸がどきどきしていた。たぶん、アートメイクのアーティストとして、もう何十人という客に施術をしてきたからだろう。いける、と梨奈は思った。しかしやはりアートメイクのときとは勝手が違う。

梨奈はインクで汚れてもいいように、ティーシャツに着替えていた。不織布のマスクをし、ニトリルのグローブを着けた。長い髪が邪魔にならないよう、髪をアップにして、バンダナで頭を覆った。

梨奈は一針一針、全霊を込める思いでマシンを運んだ。野球で一球入魂と言うが、梨奈の場合はまさに一針入魂だった。筋彫りには一時間以上かかった。まだ彫るスピードが遅い上、鱗が細かいので、時間がかかる。ラインのできはまずまずだった。

筋彫りが終わり、梨奈は少し休憩を取った。いくらあまり緊張しなかったとはいえ、心魂を傾けて彫り続けたため、非常に気疲れしていた。

施術を再開した。時間はあと一時間半もない。後片付けの時間を考えれば、施術に使えるのはせいぜい一時間ほどだ。政夫には、今日仕上げるのは無理だから、また時間を作ってもらえるように依頼した。政夫は二つ返事で了承してくれた。

梨奈が自分の脚に彫ったのは赤い鯉だった。政夫は黒を希望した。黒い鯉の場合は、全体を黒で潰したのでは、いかにものっぺりとした、平面的な絵になってしまう。黒い鯉はやはり薄ぼかしの技術を身につけなければならない。

梨奈はタトゥー雑誌やインターネットで薄ぼかしの方法を研究した。また、鳳凰の下絵ができたという連絡を受け、それを見に行ったときに、ジュンに薄ぼかしのやり方を教えてもらった。そして自分自身の肌で練習した。薄めた黒いインクを使い、マシンを動かすスピードを速めにして、何とか薄ぼかしらしい彫り方を習得した。

鯉の身体の上部は黒く潰し、それ以外の部分やひれは薄ぼかしにする。ぼかしの部分は濃淡をつける。部分的には赤や黄、水色も使う。自分にはぼかしがうまくできるだろうか。しかしやらなければならない。練習では何とかそれらしくできた。

濃くしてしまった部分はもう薄くできないが、薄いところはまたインクを重ねることで濃くできる。まずは全体を薄くぼかしてみよう。梨奈はそう方針を決めた。
鯉全体を薄くぼかしたところで、もう時間となった。

「今日はここまでにしておきます。まだ完成までには時間がかかりますが。彫るのが遅くて、ごめんなさい。この次はぼかしの部分を、だんだん濃くして濃淡をつけ、立体感を出すつもりです。どうもありがとうございました」

梨奈はマシンを置き、政夫にお礼を言った。

「いや、梨奈こそありがとう。初めて他人に彫って、疲れただろう。初めてにしてはうまくできてるぜ。次は紅葉(もみじ)なんかの飾りもつけてくれよ」

政夫も出来栄えには満足した。政夫は針などの消耗品代だと言って、三〇〇〇円をくれた。

梨奈はまだ代金をもらえるほどの腕ではないから、と辞退したが、政夫は受け取ってくれ、と聞かなかった。七海が「もらっておいたら?」というので、やむなく受け取った。

いくらわずかとはいっても、代金をもらった以上はプロなのだから、なおいっそう頑張らねば、と梨奈は気持ちを鼓舞させた。


牡丹BN2

第3話 彫師デビュー    2013年03月15日(金)10時00分
第2話 チャレンジ     2013年03月05日(火)10時00分
第1話 タトゥーとの出会い 2013年02月22日(金)10時00分

このエントリへのコメント[Facebook]

Posted at -0001年11月30日 00時00分