TATTOO COLUMN
第1話 タトゥーとの出会い
すべては一本の電話から始まった。
用件はメールで済ますことが多い七海から、電話がかかってきた。
「ねえ、タトゥー大会に行ってみない? 今度の日曜日、休みだと言っていたでしょう」
梨奈は携帯電話で、親友の七海から誘われた。
「え、タトゥー大会? タトゥーって、ひょっとしたらいれずみのこと? 七海、そんなものに興味があるの?」
「うん。友達にロックのバンドやってる人がいて、タトゥーイベントでライブやるんだって。それでチケットくれたんだけど、一人では何となく行きにくくて。それで、梨奈に一緒に行ってもらいたいんだけど」
確かに最近は若者のファッションとして流行しており、街でタトゥーをした男女が歩いているところを見かける場面が多くなった。
梨奈が勤めている職場にも、腕に蝶のタトゥーを入れている人がいる。
女性がバラや蝶の絵で肌を飾っているのを見ると、きれいだなと思う。
しかし自分の肌に、痛い思いをしてまで、一生消えない絵を刻もうとまでは考えなかった。
肌を飾るならシールで十分だ。シールならいつでも消すことができる。今は百円ショップでも、いろいろな図柄のタトゥーシールを売っている。
「ねえ、お願い。せっかくチケットをもらったんだし、おもしろそうだから、一度見てみたいと思ってるの。一緒に来てくれない? チケット、一枚しかないから、梨奈の分は私が半分負担するから。梨奈、どうせ日曜日でもデートする彼氏、いないんでしょう」
「最後の一言は余分」
七海に頼まれ、梨奈はしかたなく了承した。
七海のお目当てはタトゥーそのものより、ロックのライブコンサートなのだろう。とはいえ、梨奈にタトゥー、いれずみに対する興味が起こったのは事実だった。
梨奈は名古屋市内のアートメイクサロンのスタッフとして働いている。
まだ入社して半年で、今は受付や接客が主だが、アートメイクやまつげエクステなどを手がけてみたいと思って勉強している。
考えてみれば、技術としては、アートメイクとタトゥーは同じようなものだ。
サロンは第二、第四火曜日が休みで、日曜日も営業している。従業員はローテーションを組んで、週に一日か二日の休暇を取る。たまたま次の日曜日は梨奈が休みになっていた。
〝大名古屋タトゥー大会〟と銘打たれたタトゥーコンベンションは、名古屋市の大須近くのビルで開催されていた。
梨奈と七海は地下鉄で上前津まで行った。駅からは、チケットに示された案内図を頼りに、イベント会場まで歩いた。
会場は思ったより大きなビルで、その三階ワンフロアを借りていた。
ビルの一階の入り口には、タトゥーの図柄のような絵がたくさん飾ってあり、そこが会場であることが一目でわかった。
もう一〇月で、ほとんどの人は長袖を着ているのに、会場の近くでは半袖やノースリーブの服を着て、腕のタトゥーをあらわにしている人が多かった。
梨奈と七海は恐る恐る会場に通じる階段を上っていった。午前一〇時の開場で、先ほどオープンしたばかりだ。中に入ってすぐのところに受付があり、七海はチケットを渡した。
梨奈は当日券を買った。前売り券は三五〇〇円だが、当日券は五〇〇円高かった。約束通り、半額の二〇〇〇円を七海が払ってくれた。
肩から手首にかけて、びっしりタトゥーを彫った若い女性が、梨奈と七海の左の手の甲に、ゴム印を押した。
「一度会場を出て、再入場するとき、このスタンプ印を見せてくださいね」
腕に大きなタトゥーを入れている女性がにこやかに言った。
そのスタンプは、タトゥーの輪郭を彫るときに、転写に使うインクを使用しているので、石けんで手を洗った程度では落ちないものだった。
会場の中は暖かかった。むしろ暑いといったほうがよかった。
肌を露出している人が多いので、暖房を強くしていた。
タトゥーの実演をしている彫り師ばかりではなく、一般の来客の多くがタトゥーを入れていた。
女性でも背中一面に大きな絵を彫っている人が何人もいる。
中にはスキンヘッドにして、頭に大きく赤や青、紫の牡丹を入れている女性もいた。
この大会に備えて、髪を剃ってきたのだろうが、髪が伸びるまでは鬘でもかぶっていなければならないだろうな、と梨奈は他人事ながら心配になった。
「何、これ。周りはタトゥーの人ばかり。こんなの、初めて見た」
会場を一回りして、梨奈は小さな声で七海に驚きを伝えた。
「私もこんなすごいとは思わなかった。タトゥーがないと、かえって場違いな感じがしちゃう」
そんな会話をしていたら、「よう、七海、来てくれたんか」と後ろから男性に声をかけられた。
「あら、政夫。チケットありがとう。一人では来づらかったんで、友達の梨奈を誘ったの」
七海が振り向いて応えた。
「やあ、初めまして。俺、七海のダチで、金子政夫といいます。通称、マサ。俺、バンドやってて、タトゥーなんかにも興味を持っているんだけど」
マサと名乗った男性は、モヒカン刈りで左の二の腕に大きなスカルのタトゥーを入れていた。胸元からもサソリのようなタトゥーが覗いている。
そういえばミュージシャンなんかには、タトゥーをしている人が多いんだな、と梨奈は思った。
「私、速水梨奈です。アートメイクサロンに勤めています」
梨奈も挨拶を返した。
「俺たちのバンド、バイクギャングロッカーズは二時と六時の二回、この会場でライブやるから、ぜひ聴いてくださいね」
政夫は二人に依頼した。梨奈がいるので、丁寧な話し方をした。
「七海、あんなかっこいい彼氏がいたのね。ちょっと危なそうな感じがしないでもないけど。隅に置けないぞ、こいつ」
政夫がその場を離れてから、梨奈が七海に突っ込んだ。
「彼氏じゃないわ。ただの友達よ。はっきり言って、あいつ、まだガキよね。政夫、仲間四人でアマチュアバンドやってるのよ。政夫はドラム担当」
それでも七海はまんざらではない、というように、顔を赤らめて言った。
二人は今度はアーティストのブースを見て回った。三人のアーティストがタトゥーを彫る実演をしていた。ほかにも準備中のブースがいくつかあった。
梨奈は職場で、店長や先輩が女性の眉やアイラインにアートメイクを施している場面を、アシスタントとして何度も見学している。
アートメイクに使っている、太い鉛筆状のマシンと形は違うが、やっていることは同じだった。
梨奈のサロンでは、手彫りの針も使っている。この会場でも、手彫りの針でタトゥーを彫っているアーティストがいる。梨奈も先輩に、眉とアイラインのアートメイクをしてもらった。アートメイクのカラーは、何年もすれば徐々に薄くなっていくが、タトゥーの場合は、外科的な処置をしない限り、一生消えないのが違いといえるだろうか。
梨奈はタトゥーの施術に興味を持った。人の肌に施術したことはないが、練習用マットなどの人工皮膚を相手に、梨奈もマシンを握ってアートメイクの練習をしている。
だから私にもタトゥーができそうだと思った。
実演中のアーティストに、女性が一人いた。タトゥーを彫ってもらっている客も女性だった。その客は左の足首に、トライバルという黒い模様を彫ってもらっていた。梨奈はその様子をじっと見ていた。
「梨奈、やけに熱心に見ているのね」
食い入るように施術を見つめている梨奈に、七海が声をかけた。
「うん。私もときどき、店長がアートメイクしているところを見学させてもらうけど、似ているな、と思って」
「そうなの? アートメイクって、タトゥーと同じなの?」
「基本的には同じよ。私も眉やアイラインをやってもらったけど、よく似ているよ。ただ、アートメイクは何年もすれば薄くなるように、消えやすいカラーを使って、表皮のごく浅いところまでしか針を刺さないのが違いといえるかな」
七海も少し前に梨奈がアートメイクをやってもらったと聞いて、アートメイクに興味を持ち、梨奈にいろいろ質問したことがある。
そのとき、タトゥーみたいなものだとも聞いていた。七海は梨奈がアートメイクの技術を習得したら、自分もやってもらおうと考えていた。
肌にタトゥーのように色素を入れることに対して、特に抵抗は感じなかった。アートメイクはあくまでタトゥーとは違うものだと認識していたからだ。
熱心に施術を見ていて、そんな会話をしていたので、ブースの受付にいた女性が、「あら、あなた、アートメイクをやっているんですか?」と梨奈に声をかけてきた。
タトゥー関係の人から話しかけられ、梨奈はちょっとどぎまぎした。その受付の女性も、腕に派手なタトゥーが入っている。
「いえ、私はアートメイクサロンに勤めていますが、まだアートメイクはやったことがないんです。今はまだ練習中です」
梨奈は緊張して答えた。
「うちはこの近くでフェニックスタトゥーというスタジオをやっているんですが、よろしかったらどうぞ」
受付の女性は二人にスタジオのパンフレットをくれた。梨奈はその場でパンフレットを開いた。
フェニックスタトゥーは今実演をしている女性アーティストと、オーナーでもある男性アーティストの二人で運営している。
女性アーティストはジュンという名前だ。ジュンの作品がいくつか載っていた。女性らしい、かわいい作品が多かった。
「きれいですね。こんなのだったら、私もやってみたいなと思います」
さっきまではタトゥーなんて入れようと考えてもいなかった梨奈だが、自分の肌にもやってみようかな、という気持ちになっていた。
もちろんそんなことを思うのは、この会場の異様な雰囲気に毒されたためであり、一時的な興奮から、一生消すことができないタトゥーなどを入れるべきではない、という冷静な自分もいた。そのもう一人の自分が、ばかなことはやめなさい、とブレーキをかけていた。
「今ジュンはモニターを受け付けています。もしよろしかったら、いかがですか? あと一人で受け付け終了です。今日は時間が限られているので、握り拳程度の小さいものしか彫れませんが。モニター価格として、ふだんの半額でやりますよ。もちろん会場にいる多くの人に、彫るところを見てもらいますが。今予約すれば、夕方五時からの施術となります。図柄はこの見本の中から選んでいただきます。今日は絵の相談の時間を取れないので、図柄を限定させてもらっています」
男性アーティストは、もう今日の受付を終了したが、ジュンがあと一人のみ受け付けている。梨奈は気持ちが動いた。施術している場面を多くの人に見られるとはいえ、料金がふだんの半額の一万円というのも魅力だった。
見本には牡丹やバラ、桜、蘭などの花、様々な蝶、スカル、金魚、鯉、鳥、蛙、蛇、ユニコーン、星、ハート、ナイフなど、いろいろな図柄があった。
その中で赤い牡丹を彫ってみたいと思った。タトゥーを入れると思うと、胸がどきどきと波打った。性的な興奮のようなものさえ感じた。
「ちょっと、梨奈、やる気なの? 今いきなり決めちゃうんじゃなく、もっと落ち着いて考えたほうがいいんじゃない? タトゥーとアートメイクとは違うのよ」
隣で七海がそっと耳打ちした。
「もちろん、タトゥーは一度彫ると一生肌に残るものですから、今ここで決めなくてもけっこうですよ。よく考えて、それでも彫ってみようというのなら、またスタジオに連絡してくださってもいいですし。電話番号はそのパンフレットにありますから」
七海が忠告しているのを聞いて、受付の女性が言った。
「でも、今日の受け付けは最後なんでしょう? 最後の一人になったのは、何かの縁だと思います。私、やります。この一二番の赤い牡丹をやってみたいです」
梨奈は自分が何を言っているのかわからないほど興奮していた。やめなさいと諫めるもう一人の自分をあえて無視をした。
「ではこの同意書をよく読んで、納得できたらサインしてください。それから、今日は運転免許証などの身分証明になるものは持っていますか?」
梨奈はアートメイクサロンに就職し、すぐに運転免許証を取得した。店長も車の免許は必要だからと、夜間に自動車学校に行くため、夕方以降の仕事を免除するなど、便宜を図ってくれた。免許証はいつも持参している。
梨奈はそれを受付の女性に提示した。彼女は免許証を確認してから、それをコピーした。
「タトゥーをする際は年齢などの確認が必要なので、申し訳ありません。コピーは厳重に管理して、第三者には決して見せることがないようにしますから」
そう弁解しながら、彼女は免許証を返してくれた。
同意書には、タトゥーは一度入れれば、二度と消せないこと、タトゥーを入れたことにより、社会的な不利益を被っても、当スタジオはいっさい責任を負わないこと、施術に際し、衛生面には万全を期しているが、万一お客様の不注意で化膿などの傷害が起こっても、当スタジオは責任を負いかねる、上記のことを了承の上、貴スタジオに施術をお願いします、ということなどが書いてあった。
梨奈はサインをし、拇印を押した。料金はふだんの半額の一万円を請求された。午後五時から施術なので、一〇分前にはこのブースに来るように言われた。
この会場ではアルコール飲料を販売しているが、タトゥーを彫る前にアルコールを飲むと、施術のとき血液が多く噴き出すなど、支障が出るので、アルコールを飲まないように注意された。彫る場所を訊かれ、「左腕か肩を考えていますが、施術のときまでに決めておきます」と梨奈は応えた。
「梨奈、本当にやっちゃうの? やめたほうがいいんじゃない? せめてもうちょっと考えてからにすればよかったのに」
フェニックスのブースを離れてから、七海が心配そうに言った。
「私も何であんなこと言っちゃったのかな、と今になって思うけど。一時的に興奮しちゃったのかな。この会場、タトゥーしてる人でいっぱいで、何となくタトゥーがないのが恥ずかしいみたいな気持ちになっちゃって」
「やっぱりやめるべきよ。キャンセルしても、やってみたい人はまだたくさんいるだろうから、彫り師には迷惑かけないわ。たった一万円で梨奈の一生、めちゃくちゃにすることないよ。タトゥーすると、結婚に支障があったり、会社でいやな思いしたり、温泉に入れないとか、いろいろ不便があるみたいよ。アートメイクとはわけが違うんだから。子どもができてからも、親子でプールに行けないなんて聞いてるわ。政夫みたいにロックバンドやってれば、タトゥーは一種のステータスシンボルみたいな感じにはなるけど。このイベントに梨奈を誘ったの、私だから、責任感じちゃうし」
七海は再度警告した。梨奈はやっぱりやめるべきかな、と考え直した。
「まもなくお昼だし、何か食べながら話し合おうよ。大須でおいしい店知っているから、そこ行こう」
七海は梨奈を食事に誘った。会場から離れれば、梨奈の興奮も治まるだろうと考えた。
梨奈は七海がおいしいという小さな店に行った。まだ一一時を少し回ったころで、店は空いていた。それでもあと三〇分もすれば、満席になるそうだ。
「お勧めは味噌カツ定食よ。矢部とんほどではないけど、ここもけっこういけるから」
梨奈は七海のお勧めの味噌カツ定食を注文した。矢部とんというのは、有名なトンカツの店だ。七海はタトゥー大会のことを話題にしたかったが、食事の間はあえて別の話をした。七海が勤めている商社の、いやな上役の悪口などが主だった。
「ほんと、もう頭にきちゃう。あんなやつが部長だなんて、あの会社ももう長くないわね」
そんな話も七海にとってはいいストレス発散になった。食事を終えた後は、しばらく大須の商店街を歩いた。最近は不況で閑散としている商店街が多いが、大須は賑わっていた。
大須は電脳街を始めとし、ファッションや食べ物、ゲームセンター、メイド喫茶、お寺、演芸場など、様々な要素がごった煮のように溶け合っている。外国人の往来も多い。
近辺にはタトゥースタジオがたくさんあり、日本で最もタトゥースタジオが多いところとも言われる。七海が久しぶりにゲーセンに行こうと梨奈を誘った。
ゲームをしていると、あっという間に時間が経った。あまりゲームをしない梨奈は、すぐに負けてしまった。それでもうお金を使うのは無駄だからと、ゲームやめてしまったが、七海は熱中していた。七海はさっき政夫さんのことをガキと言ったけど、七海の方がよほどガキよね、と梨奈は毒づいた。
政夫とはこのゲーセンで知り合ったそうだ。七海がゲームに熱中しているのは、そんな思いがあるためなのかもしれない。
「もうすぐ政夫さんのライブが始まるから、そろそろ戻らない?」
梨奈は七海を促した。
再入場には左手の甲に押したゴム印を見せるように要求された。トイレに行ったときに手を洗ったが、その程度ではインクは落ちなかった。
「私、やってみる」
イベント会場に戻って、梨奈は宣言した。
「やってみる、って何を?」
「タトゥーよ。やっぱりやってみたいわ。せっかく予約したんだし。すっぽかしては、ジュンさんにもわるいもの」
「いいの? もう二度と消せないのよ。アートメイクとはわけが違うんだから」
「うん。私もアートメイクサロンに勤めてるから、ある程度のことはわかってるわ。うちのサロンはレーザーを使って、アートメイクやタトゥー除去もしてるから。レーザー照射では、完全に消えないことが多いわ。外科的な手術をすれば、傷痕が残るし。実はうちのサロンに、一人、腕に蝶を入れている先輩がいるけど、特にバッシングなどもないし。アートメイクサロンという職業柄、一般企業よりタトゥーに対する偏見は少ないのよ」
「そう。梨奈がそう決心したんなら、もう何も言わない。でも、このイベントに梨奈を誘ったのは、ちょっとまずかったかな」
「そんなことないよ。私もアートメイク勉強してるんだし、もともとタトゥーもアートメイクも同じようなものだから。今日ここに来なくても、きっと私もタトゥーに興味を持ったわ。だから気にしないでね」
七海はせっかく食事に出て、タトゥーに当てられた興奮を静めようとしたのに、会場に戻ったとたん、また梨奈はタトゥーに毒されてしまったと思った。
でも、考えてみれば梨奈はすでに針でカラーを肌に入れるという、タトゥーと同じようなことを体験しているのだし、仕事でそれをやろうともしている。タトゥーに興味を持っても不思議じゃないわね、と考え直した。
「わかったわ。梨奈がそこまで決心してるなら、もう何も言わない。梨奈がタトゥーを入れたからといって、私の梨奈を見る目が変わるなんてことはないから、安心して」
間もなくライブコンサートが始まった。会場に作った簡易なステージの上で、四人の男が大音量でロックを奏でた。
バイクギャングロッカーズはボーカル、ギター、リード、ドラムで構成するバンドだ。七海の友人のマサはドラムを担当している。
ロックバンドらしく、髪型はモヒカンにしたり、派手な色に染めたりしている。四人とも腕に様々なタトゥーが入っている。
アマチュアバンドながら、演奏はなかなかのものだった。演奏は三〇分以上続いた。
演奏が終わり、興奮が一段落すると、七海はマサに握手を求めた。
本当は抱きつきたかったが、大勢の目があるので、それは控えた。ドラムを熱演していたマサは汗だくだった。ほかにも花束を渡したり、握手を求めたりする女の子がいたので、七海がマサを独占することができなかった。
七海は不満そうに、「またメールするからね」と小声で伝えた。
午後五時が近づいたので、梨奈と七海は、フェニックスタトゥーのブースに行った。
受付の女性が梨奈をブース内に案内した。いよいよタトゥーを入れるのだと思うと、梨奈の心臓が高鳴った。
「入れる場所はもう決めましたか?」とアーティストのジュンが尋ねた。
ジュンは長袖の服を着ているが、両の手の甲にはバラや蝶のタトゥーが入っていた。
首にもタトゥーがある。耳の軟骨の部分や小鼻、口の右端にリング状のピアスをしている。
梨奈は最初、左の二の腕に入れるつもりだったが、腕ではあまりに目立ちすぎる。
アートメイクサロンの先輩も腕に蝶を入れているから、自分がタトゥーを入れたからといって、サロンを辞めさせられることはないだろうと思いながらも、他人に見られにくいところに入れようと考え直した。
腰はしゃがんだとき、背中がはだけて意外と見つかりやすい。見えにくい場所としてはおへその下とか、腰の横、お尻などがいいかなと考えた。
そこなら、入浴するとき以外は、医者か未来の彼氏以外に見られることはない。
そのことを伝えると、ジュンは「彫っている場面は多くの人に見られるけど、大丈夫?」と確認した。
へその下だと仰向けの体勢になり、顔を見られるので、お尻の右側に入れることにした。
そこなら施術のときにうつぶせで、頭が奥の壁際に向くので、顔を見られにくい。
ジュンは牡丹の色と大きさを確認した。色は見本にある赤以外にも、ピンク、マゼンタ、オレンジ、黄、青、紫、白などができるという。色のつけ具合は、アーティストに一任だ。
梨奈は赤を選んだ。大きさに関しては、今回が最後で、多少時間が延長してもかまわないというので、大きめのサイズを希望した。追加料金は不要とのことだった。
梨奈はパンツを脱いで、壁に向かって立った。ショーツは着けたままでよいと指示された。タトゥーを入れる部分だけ、ショーツをずらした。グリーンソープで施術する部分を洗浄してから、スムーズな作業のために、使い捨てカミソリで周辺の産毛を剃毛された。
そのあとアルコールを噴霧して、施術部を消毒した。そしていよいよ下絵の転写だ。
少しでも身体が曲がると、絵も歪んでしまうので、まっすぐ背筋を伸ばして立つように命じられた。慎重に位置を決め、転写シートを肌に貼り付けた。歪んだり、浮いたりしないように、細心の注意でもってシートが貼り付けられた。
しばらく時間をおいてから、シートをそっと取り除いた。
肌には紫色の牡丹の輪郭が転写されていた。握り拳大の牡丹の花と、その周囲に何枚かの葉が描かれていた。
「こんなところでどうですか?」
ジュンは手鏡を梨奈に渡した。
「はい、これでいいです。よろしくお願いします」
梨奈は転写されたラインが乾くまで、しばらく待つように言われた。
「とうとうやっちゃうんだね、梨奈」
ブースの外から、七海が心配そうに声をかけた。
「うん。胸がどきどき。二時間後には、私は華麗に変身するのね」
梨奈は覚悟を決めた。
いよいよ施術となった。施術台に横になるよう指示された。梨奈はうつぶせになった。
多くの人が見ているので、梨奈は下を向き、顔の下で腕を組んで、顔を見られないようにした。やはりお尻の部分があらわになっているので、恥ずかしかった。
ジュンはきわどい部分をタオルで隠してくれた。デジカメやスマホで写真を写している人が何人かいた。
ジュンは赤い小さなカップに黒いインクを注いだ。同じようなカップをアートメイクの時にも使用する。マシンのスイッチを入れ、そのカップからインクを針につけた。マシンがビーンという大きな音をたてた。そしてジュンは最初の一針を梨奈の肌に下ろした。
ああ、とうとうやっちゃったんだ、もう二度と元には戻れない、と梨奈は観念した。
アートメイクでアイラインの施術を受けたことはあるとはいえ、アートメイクとタトゥーでは、その覚悟に雲泥の差があった。
痛みは予想していたほどではなかった。とはいえ、針を深く刺す分、アートメイクよりずっと痛かった。場所により痛みの度合いが異なる。腰の辺りより、お尻の割れ目の近くの方が苦痛は大きかった。
梨奈は両親の顔を思い浮かべた。アイラインを入れただけで、母親からかなりうるさく小言を言われたのに、タトゥーをしたことがばれたら、ひどく叱られるだろう。
しばらくはタトゥーのことは隠しておこうと思った。やはり腕に入れなくてよかった。腕だと、父はともかく、めざとい母にならすぐに見つかってしまいそうだ。お尻ならばれる可能性は小さいだろう。
ラインは三〇分ほどで終わった。しばらく休憩になった。梨奈は手鏡を借り、自分の臀部に描かれた牡丹を見た。
黒いラインはミミズ腫れのようになり、その周りはピンク色に染まっていた。
血はほとんど出ていなかった。もうこの牡丹の花は、一生私の肌から消えることがないのだと思うと、身震いするような興奮を覚えた。
ジュンはカップに赤、ピンク、黄、緑、黄緑、白などのインクを用意した。マシンの針も、ライン用の三本針から、色を塗るための五本平針に変更した。
そして、作業を再開した。梨奈はジュンが緑色のインクを針に含ませたのを横目で見て、最初は葉の色から塗るのだと考えた。色塗りの作業は、輪郭を彫るより苦痛は多少軽かった。
痛みの場所が少しずつ別の場所に移っていき、作業はどんどん進んでいるように思えた。
梨奈は彫られながら、今、どこを彫っているのだろうかと想像した。
自分の肌がきれいに染まっていくところを、自分の目で見たかった。しかし、身体を少し動かすだけでも、「動かないで」と注意された。
身体をねじって、自分の臀部を見ることは不可能だった。
梨奈はきれいに彩られていく、肌に咲いた花を想像して楽しんだ。
二時間ほどで色塗りの作業は終了した。
タトゥーイベントでのモニターは二時間以内で仕上げていたが、最後のモニターということで、少し時間をオーバーして、大きめのものを彫ってくれたのだった。
梨奈は完成した牡丹の花に見とれた。きれいに色が入ると、最初に考えていたよりずっと大きなものに思えた。
受付の女性がタトゥーをデジタルカメラで撮影した後、ジュンが彫った部分にワセリンを塗り、パッドを貼った。そしてアフターケアの説明をしてくれた。
お尻は座ったりすると体重の多くが施術部にかかり、下着がタトゥーに貼り付いてしまうので、決して無理にはがさないように注意された。
貼り付いてとれない場合は、お湯などで十分に湿らせてから、そっとはがさなければならない。ラップなどを貼っておけば、下着に付着することを防げるが、雑菌などが繁殖する恐れがある。
清潔を心がけなければならない。梨奈は先ほど貼ったパッドを、一枚分けてもらった。
「梨奈、とうとうやっちゃったのね。でも、きれいだよ。傷が治ったらまた見せてね」
施術の途中で、マサが所属するバイクギャングロッカーズの二度目のライブが始まり、七海はそちらへ行っていた。
演奏が終了後はずっと梨奈の施術を見ていた七海が、梨奈の牡丹のタトゥーをほめた。
イベントが終了するのは夜一〇時だ。しかし最後まで参加していると、帰宅が遅くなるので、二人は八時ごろに会場を出た。夜は梨奈のなじみのイタリア料理店で食事をした。
「タトゥー入れたところ、どう? 痛まない?」
注文を終えた七海が梨奈に尋ねた。
「うん。座ると体重がかかるので、けっこう痛い。アートメイクの場合はたいしたことなかったけど、やっぱりタトゥーは針を深く刺すし、施術する面積もずっと大きいから、痛みも全然違うよ。かさぶたができて傷口が乾燥するまで、下着にくっつかないようにケアするのが大変。ジュンさんにも注意するように言われたし。両親にもなるべくばれないようにしなくては」
梨奈と七海は食事の間、タトゥーイベントのことを話していた。梨奈はマサとの関係を七海に尋ねた。
「マサとは半年ぐらい前に、昼間行ったゲーセンで知り合ったのよ。腕にどくろのタトゥーをしているので、ちょっとやばい人かな、と最初思っていたけど、ロックバンドやってる、と聞いて、それならタトゥーしてても、一種のステータスシンボルみたいなものかな、なんて思って。それ以来、マサのバンド、応援してるの。髪型は今日はライブがあるのでモヒカンにしていたけど、いつもは普通の長髪よ」
「それで今日のチケットもらったのね」
「うん。会場でライブやるから、見に来てくれって。でも、梨奈がタトゥーしちゃうなんて、全然考えてもいなかった。だから、梨奈を誘ったことにちょっと責任感じてるんだ。タトゥーって、もう一生消えないんでしょう」
「七海が責任感じることなんてない。私もアートメイクの技術勉強しているし、職場の先輩も入れているから、タトゥーには興味は持っていたから。もっとも自分が今日やっちゃうなんて、考えてもみなかったけど。それはちょっと衝動的すぎたかな、とは思うけど、いつかはやってたかもしれない。やるのがちょっと早くなっただけよ」
梨奈は七海に気にすることはない、と強調した。
■第3話 彫師デビュー 2013年03月15日(金)10時00分
■第2話 チャレンジ 2013年03月05日(火)10時00分
■第1話 タトゥーとの出会い 2013年02月22日(金)10時00分
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