TATTOO COLUMN

第16話 彫筑動く ▼
前回までのあらすじ----------
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美琴は自分の身の上を彫甲に語り始めた。

美琴はかつて田所の女だった。

田所の資金援助で、今経営している小料理屋を開店したのだった。

しかしやがて田所には若い愛人ができ、関心はその女性のほうに移った。

美琴はもうほとんど田所には相手にしてもらえなくなった。

それでも自由にしてもらえるわけではなく、小料理屋の女将として、田所に飼い殺しにされている状態だった。

そんな折、彫甲が店に来るようになった。

彫甲の客でもある秋吉組の組員が、

「師匠、この前なかなかいい店を見つけたので、ちょっと行ってみませんか?」 と彫甲を誘った。

その組員は美琴が対立する暴力団組長の女であることを知らなかった。
 


「少し薹が立っているとはいえ、ちょっと陰がある、なかなか魅力的な女将が一人でやっている店なんですよ」 と彫甲に紹介した。

その料理屋“みこと”に行き、美琴と意気投合した彫甲は、ちょいちょいその店を訪れるようになった。

最初は客としてだったが、男女の仲となるのに、それほど時間がかからなかった。

彫甲と付き合い始めてから、美琴は田所より、その店を手切れ金代わりにやるので、愛人関係を清算する、と一方的な通告を受けた。

古い建物の2階にある小さな店で、たいして広くはない。

地下鉄今池駅から南東に離れたところにある。

料理屋としてはそれほどいい立地とは思えない。

今池は名古屋屈指の繁華街だが、美琴の店は場末にあるといえる。

店の権利は譲り受けたが、それまで受けていた援助などは一切なくなった。

店は美琴一人の才覚でやっていかなければならない。

田所から自由になり、美琴は彫甲への傾倒を深めた。

美琴は彫甲が有名な彫り師だと知って、

「私もきれいないれずみを背負いたい」 と彫甲に頼んだ。

田所の背中には児雷也の絵が入っている。

それは彫斉の絵ではなく、もう40年近く前に入れた手彫りによる見事な作品だった。

また、田所の愛人として、時々事務所に出入りするとき、美琴は事務所にたむろする組員たちの何人かの腕や背中に、彫り物を見た。

最初は怖いと思ったが、やがて彫り物の妖しい魅力に魅せられるようになった。

最近は景気の悪化や暴対法の影響により、以前に比べれば、彫り物を彫る組員の数が減っている。

それでも黒姫組の組員の中には、大きな彫り物を背負っている者も多い。

美琴は彫り物を、肌の上の素晴らしい芸術ととらえ、ぜひとも自分の肌にも美しい絵を刻んでみたいと思った。

ただ、組員の多くはおどろおどろしい絵なので、美琴はきれいなものを彫りたかった。

けれども田所は美琴の肌に彫り物、タトゥーを入れることを許さなかった。

女性は白い肌がいいという田所の美学によるためだった。

田所の束縛から逃れた美琴は、背中に美しい彫り物を刻むことを決意した。

彫甲の作品を見て、彫り物については素人である美琴にも、彫斉のものよりはるかに美しいということが理解できた。

美琴は彫斉に彫ってもらわなくてよかったと思った。

一度彫ったら一生消すことができない彫り物なのだから、彫斉のような稚拙な絵ではなく、彫甲の芸術的な作品で、自分の身体を飾りたかった。

彫甲に出会うまで、彫り物を入れなくてよかったと思った。

どんな図柄がいいかを相談した結果、美琴の生年は卯年なので、卯年生まれの守護仏、文殊菩薩を彫ろうということになった。

もし彫甲が、美琴は黒姫組の組長である田所の愛人だったと知っていれば、もう少し慎重になっていただろう。

しかし美琴は自分のことを

「しがない小料理屋の女将」 としか言わなかった。

すでに田所には新しい愛人ができ、美琴に対する関心はなくなっていた。

わざわざ過去の男との関係を、自分から言う必要はないと美琴は考えていた。



「私は光廣さんをだますつもりはありませんでした。

本当に心から光廣さんを愛しています。

たとえ奥さんがいて、日陰の女だとしてもいいから、光廣さんのおそばに置いてほしかったんです」

「ああ、わかっている。

俺は人の心理を見抜くことは得意だ。

おまえが俺をだまそうとしたなんて、思っちゃいない」

「ごめんなさい、光廣さん。

わたしはまだ田所が私に執心していて、光廣さんをこんな目に遭わすなんて、考えてもいませんでした。

前に今池の近くで、三人に襲われたことがありましたが、何となく見覚えがあると思っていたら、あいつらは黒姫組の男たちだったのです。

私もあとになって思い出しました」

「あのときの三人か」

「あれから組の人たちが私のところに来て、彫甲さんと会っているのか、としつこく訊かれました。

私はもう田所とは切れているから、誰と付き合おうが、勝手でしょう、と追い返したのですが」 美琴は済まなさそうに話した。

確かにもう田所と切れているのなら、美琴が誰と付き合おうが、背中に入れ墨を彫ろうが、美琴の勝手だ。

田所がとやかく言う筋合いはない。

それとも、田所にはまだ美琴に未練があったのか?

「このところ、田所からは全く何の連絡もありませんでした。

今さら未練も何もないでしょうね。

だから私の背中に大きく入れ墨を彫ったからといって、田所に文句をつけられるいわれはありません」 すると田所が言っていたように、彫甲が過去の女と懇ろになり、背中に入れ墨まで彫らせたことが癇に障ったのか。

今はともあれ、過去に支配していた女にまで焼き餅を焼いたのか。

馬鹿らしい、と彫甲は思った。

そんなくだらないことで右腕一本いただくとは、よくも言えたものだ。

ひょっとしたら目的は金だろうか。

俺を人質に取り、道場に金を要求する気なのか。

しかしそれなら立派な営利誘拐だ。

警察も黙ってはいない。

それこそ黒姫組は壊滅することになりかねない。

とにかく今ここであれこれ考えていても仕方がない。

明日、田所ともう一度対決して、その魂胆を問い詰めてやろう。

彫甲は結論づけた。

今日は長男の9歳の誕生日で、仕事を終えたらすぐに帰ると約束してあったのに帰らなかったから、美好や大輔は怒っているだろうな、と彫甲は気になった。

美好は美琴のところに転がり込んでいると思っているだろう。

美琴と一緒にいるのは事実だが。

黒姫組に拉致されてから、何度も美好からの携帯電話の着信音が鳴っていた。

だが携帯電話は吉永に没収されてしまった。

だから美好に連絡できない。

美琴はスマートフォンを持っているが、監禁されて充電できなかったため、バッテリーが切れていた。

スマートフォンは従来型の携帯電話に比べ、バッテリーの保ちがわるい。

美琴は監禁されたとき、見張られていて彫甲に連絡できなかったのだから、すぐに電源を落としておけばよかったと悔やんだが、今さらどうしようもなかった。

暖房がない部屋は寒かった。

もう立春が過ぎたとはいえ、2月上旬は1年のうちでも最も寒いころだ。

彫甲は1組しかない布団に、美琴と一緒に潜り込んだ。

彫甲は後ろ手に手錠をかけられたままなので、寝苦しかった。



「寒くないか? 美琴」

「少し。

でも光廣さんが暖めてくれるから……」 美琴と同じ布団に寝ているとはいえ、さすがに何もする気になれなかった。

監視カメラがじっと二人を見張っている。

翌朝、目玉焼きに味噌汁、ご飯、漬け物の粗末な朝食が差し入れられた。



「こんなもの、食えるか。

今どき刑務所でももっとましなめしが出るぞ。

黒姫もけっこう儲けているのなら、めしぐらい、もっとまともなものを食わせろ。

それに後ろ手に手錠をかけられていては、箸も使えん」

「そんならその女に食わせてもらえばいいだろう。

はい、あーんして、なんて言ってな」 食事を持ってきた組員が卑しい笑い方をした。

彫甲は食事には手を出さなかった。

腹は減っても、彫甲にはメンツがあった。

しばらくして彫甲は田所に呼ばれ、組長室に連れて行かれた。

午前10時を少し回ったころだった。

道場では、俺が出勤しないので光喜たちが心配しているだろうな、と彫甲は考えた。

連絡したくても、携帯電話は没収されたままだ。

組長室に入ると、田所とともに、彫斉がそこにいた。



「よう、彫甲。

こんなところで会うとは、奇遇だね」

「何だ、彫斉か。

おまえがなぜここにいるのだ?」

「いや、今日は仕事だよ。

ここの兄いさんに彫る仕事があってね。

出張でここに来たら、彫甲も来ているというんで、ちょっと挨拶に伺ったんだよ。

おまえも今日はここで仕事なのか? それにしては何で手錠なんかはめてるんだ?」 彫斉はへらへらと笑った。

そんな彫斉の調子が、彫甲の気に障った。

しかし彫甲はあえて彫斉を無視した。



「ところで田所さんよ。

この俺をどうするつもりだ? 美琴に入れ墨を入れたことでメンツが丸つぶれだと言っていたが、それは単なる言いがかりでしかないのじゃないか? 美琴に聞いたが、あんたはすでに新しい若い愛人にご執心で、美琴はもう捨てたのじゃないか? 昨日はあんたのところから逃げ出した女だと言っていたが、実はあんたが捨てたのだろう? 捨てた過去の女のことで言いがかりをつけるなんて、男らしくないんじゃないのかね」 彫甲は田所の痛いところと突いた。

そしてさらに続けた。



「もう道場にうちの門下生が来ているころだが、あいつらも俺が来ないので、心配しているだろう。

そろそろ俺を帰してもらいたいね。

今なら一晩俺を監禁したことは不問にしてやる」

「おい、彫甲、おまえ、何か勘違いしてないか? 何が偉そうに不問にしてやる、だ。

主導権を握っているのは、こっちの方だろう」 彫斉が横やりを入れた。



「下手っぴ彫斉は黙っていろ。

俺は田所さんと話しているんだ」 彫甲に下手っぴと言われた彫斉は、むかっとした。



「彫甲。

はっきり言っておいてやるが、おまえをここに連れてきてもらったのは、俺の意志なんだ。

俺が親分さんに頼んで、おまえを拉致してもらったのだ。

もちろん親分さんも美琴さんのことなどで、おまえのことをおもしろく思っていなかったから、すぐに俺の申し出を受け入れてくれたがな」 彫斉の言葉を聞き、彫甲は少なからず驚いた。

なぜ彫斉がこれほどまでに腹を立てているのだ。

俺は彫斉に対し、これほどひどい仕打ちをされなければならないようなことをした覚えはない。

確かに彫斉のことを下手だと酷評したことはあったが、その程度でこれほど恨まれる覚えはない。

下手だと言われて腹が立ったのなら、うまくなって、言ったやつを見返してやればいい。



「恨まれる覚えはないだと? 他人を害したことは忘れても、害されたほうはいつまでも恨みを忘れないものなんだ。

おまえは俺に何を言って、どれだけ恥をかかせたか忘れたのか?」 2008年の夏、彫斉が弟子たちとともに、初めて一門のタトゥーコンベンションを開いた。

金山のバーを借り切って開催したイベントで、彫浪一門の大名古屋タトゥー大会に比べれば、ずっと規模が小さなものだった。

そのイベントにたまたま参加した彫甲と彫青龍は、彫斉の自慢の作品、唐獅子牡丹を

「これは唐獅子牡丹ではなく、ブルドッグキャベツだ」 とさんざんけなしたのだった。

また、虎の絵も招き猫だと酷評した。



「本物の唐獅子牡丹とは、こういうものだ」 彫甲はこう言って、彫青龍に服を脱ぐように命じた。

彫青龍の背中には、彫甲が福岡にいたころに彫った、唐獅子牡丹が入っていた。

それは彫斉の唐獅子牡丹より格段に優れていた。

その場にいた観客たちの目は、彫斉のイベントといいながら、彫甲の唐獅子牡丹に釘付けになった。

背中の唐獅子牡丹だけではなく、彫青龍の両腕の龍虎や胸、腹に彫られた不動明王に目を奪われた。

主催者の彫斉は完全に面目をつぶされた形になった。

彫甲はこれ以来、他の彫り師のイベントに行っても、何の益もないので、門下生たちに他の一門のイベントに行くことを禁じた。



「ああ、あのときのことか。

まだそんなことに根を持っていたのか。

おまえもケツの穴が小さい男だな。

俺だったら悔しさをバネに、さらに飛躍を誓うぞ。

そして精進させてくれたことを、かえって感謝するけどな」

「黙れ。

俺はタトゥースタジオがひしめく激戦区愛知名古屋で、血の出るような修業をして、やっと彫浪や彫島の一門が牛耳る和彫りの世界でのし上がりつつあった。

それを初めて開いた晴れの舞台で、九州から来たばかりのおまえに恥をかかされ、一時期弟子どもや客から見放されてしまったんだ。

その屈辱、おまえにわかるか!!」 彫斉に言われ、彫甲はそういえばあのときはちょっとやり過ぎたかもしれない、と思い返した。

彫斉が初めて開催したタトゥーイベントの舞台で、あそこまで彫斉をこけにして、恥をかかせる必要はなかったのではないか。

そのとき彫甲はビールや水割りを飲み、かなり酔っていた。

借りていた会場がバーだったので、アルコール類の販売もしていたのだ。

彫筑の弟子の中でナンバーワンと言われた彫甲は、名古屋でもトップの座を目指し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

それで調子に乗りすぎた面も確かにあった。

彫筑の親友で、東海地区の雄である彫浪には敬意を表していたが、それ以外の彫り師、タトゥーアーティストはけっこう辛らつに批判した。



「確かに今から思うと、あのときはちょっと言いすぎたかもしれん。

俺も酒に酔っていたのでな」

「酒のせいにするな。

とにかく俺はあのときの屈辱は忘れたことがない。

いつかきっとおまえに復讐をしてやろうと、機会を虎視眈々と狙っていたのだ」 くだらん、何という執念深さだ。

2年半も前のことを、今さら蒸し返すとは。

彫甲は付き合いきれないと思った。



「それで田所さんに頼んで、俺を一晩監禁してもらって気が済んだのか? 俺にも非があったことは認めてやるから、これで美琴と俺を解放すれば、このことは水に流してやる」 それでも彫甲は強気な姿勢を崩さなかった。



「おまえはまだ自分の立場が理解できていないようだな。

親分さん、彫甲のこと、どうします? 腕一本はちょっと酷なので、エンコ詰めぐらいで勘弁してやりましょうか?」 彫斉は田所に卑屈そうに尋ねた。



「彫甲の汚い指などもらってもしょうがない。

誠意を見せるなら金を払ってもらおうか。

そうだな。

彫甲入れ墨道場はけっこう儲けているようだから、1,000万円ならすぐ払えるだろう」

「ばかばかしい。

そんなことで1,000万円も払えるか。

田所さん、あんたも組織の頂点に立つ男なら、彫斉が言っていることがいかにくだらないことか、よくわかるのじゃないか? 俺は前のイベントで言い過ぎたことを認め、それに対しては謝罪する。

それで十分じゃないか。

彫斉だってそのことで発奮し、研鑽を重ねたのだろう? 確かに最近おまえの絵は以前に比べればよくなっているからな」

「おい、彫斉、彫甲はああ言っているが、どうする? 太っ腹なところを見せてやるか? わしはまあ、美琴は過去の女だから、一晩監禁したことで許してやってもいい」 田所は彫斉を見下すように言った。

1,000万円が一気に赦免になった。



「とんでもありません。

親分さんとは違い、俺にはそんな度量はありませんよ。

エンコや金はともかく、もう少し彫甲のやつをいたぶってやりたいですよ」

「そうか。

それなら彫甲はもうしばらく監禁しておく。

おまえは今日はこれからうちで仕事だったな。

うちの若いもんに彫ってやるんだろう。

おまえは自分の仕事にかかれ」 彫斉は事務所の一部屋を借り、黒姫組の組員たちに彫る予定だ。

組員に彫らせてもらえるのはありがたかった。

今日明日の2日間で、200,000円のギャラがもらえる。

最近暴対法や不況の影響もあり、組員への仕事が減っている。

ちょうど暴対法の改正やリーマンショックの影響で客足が急に落ちた時期と、彫甲の嫌がらせが重なったので、彫斉は仕事が減ったのは、彫甲が侮辱したせいだと思い込み、彫甲を逆恨みしていた。



「おい、冗談じゃないぞ。

俺にも仕事があるのだ。

弟子どもが道場で俺が来るのを待っている。

いい加減にしろ。

即刻俺と美琴を解放しろ」 彫甲は抗議をした。

その抗議を田所はせせら笑った。



「それから彫甲さんよ。

これだけは言っておくが、あんたは彫斉を馬鹿にしたが、そのことは彫斉に入れてもらった、うちの若い連中を馬鹿にしたことにもなるんだよ。

うちの若い奴らも自分の背中を中傷されたと思って、あんたに恨みを抱いていることを忘れるな」 自分自身の力量のなさを棚に上げ、お門違いも甚だしいと彫甲は言ってやりたかったが、彫斉には言っても無駄なようだ。

彫甲は監禁部屋に戻された。



「光廣さん、大丈夫ですか?」 部屋に戻ると、美琴が彫甲に尋ねた。



「ああ。

大丈夫だ。

田所と話をしたが、原因はおまえではない。

多少俺がおまえと付き合っていることに嫉妬を感じてはいるようだが、俺を拉致したのは、彫斉の差し金のようだ。

おまえは単にその口実にされたに過ぎん」

「ほりせいって、彫り師の彫斉さんのこと?」

「ああ。

あいつが昔、俺に絵が下手だと馬鹿にされたことを逆恨みして、こんなことを田所に頼みやがったのだ。

絵が下手くそだと言われれば、死に物狂いで修業して、俺を見返せばいいものだが、女の腐ったようなやつだ。

いや、今はそう言うと女性差別だといって叱られるかな」 昼食として、ホカ弁ののり弁当と熱いお茶が差し入れられた。



「おい、これじゃあ食えんだろ。

めしのときぐらいは手錠を外せ」 弁当を持ってきた三下に、彫甲は文句を言った。



「申し訳ないですが、俺は手錠の鍵を持ってないんですよ。

すみませんが、美琴さんに食べさせてもらってください」 三下は有名な彫り師である彫甲には、丁寧な言葉で対応した。

朝食を運んだ無礼な組員とは別の者だった。

また美琴のことも、組長のかつての愛人だと知っていたので、さん付けした。

彫甲は昨夜6時前に食べたきりで、今朝は意地を張って食べていなかったので、さすがにのり弁当は食べずにいられなかった。

贅沢を言っている場合ではなかった。

まさか毒は入っていないだろうな、と警戒もしたが、空腹には勝てなかった。

水は部屋の洗面台の蛇口から、自由に飲める。

二人はその日もずっと監禁されたままになっていた。

夕食にホカ弁の幕の内弁当が差し入れられた以外は、全く何も言ってこなかった。



「私たち、どうなっちゃうんでしょうか。

これがこんなところでなければ、光廣さんと二人きりになれて嬉しいんですけど、こんな牢獄みたいな部屋じゃ、いやですわ」

「彫斉の野郎、嫌がらせでしばらくここに閉じ込めておく、というのだろうな。

俺にも非があったので、せっかくこの件は水に流してやるつもりでいたが、ここから出たら、目に物見せてやる」

「私たち、殺されるんじゃないかしら?」

「大丈夫だ。

いくら何でも、こんなことぐらいで殺しはしない。

彫斉はともかく、田所はそんな馬鹿ではない。

万一の時は、俺がきっと美琴を守ってやる」 彫甲は美琴を励ました。

監禁部屋にいると外の様子は全くわからない。

腕時計を見ると、もう夜8時を回っていた。

そろそろ道場を閉める時間だ。

今日は秋吉組や中京仁勇会の客が入っていたが、どうしたのだろうか。

普段は礼儀正しい奴らだが、約束をすっぽかせばけっこううるさいことを言ってくる。

光喜や彫奈たちがうまく対応してくれただろうか。

あいつらも心配しているだろうな。

それとも俺がいないから、羽を伸ばしてやがるか? 彫甲は美好や梨奈たちのことが気になった。

翌朝、道場は休みの日だが、梨奈と彫光喜はいつも通り9時頃道場に来た。

朝から冷たい雨が降っていた。

今日は道場の休業日なので、作務衣に着替えることをせず、私服のままでいた。



「ヨーコ、まだ師匠からの連絡は来ない?」

「はい。

ずっと電話の近くにいましたが、まだありません」

「奥様のところにも電話はなかったようだけど、いったいどうしちゃったのかしら」 梨奈は道場に着いて、真っ先に師匠のことを確認した。

しかし何もわかったことはなかった。

梨奈と彫光喜は、客に頼まれている絵のデザインをした。

けれどもなかなか身が入らなかった。

しばらくすると、美好から電話が入った。



「はい。

彫甲入れ墨道場の彫奈でございます」 梨奈が電話に出た。



「あ、彫奈。

わかったわ。

あの人がいる場所が。

黒姫組よ。

南区柴田の黒姫組の事務所に監禁されているみたいなの」

「柴田の黒姫組ですか? なぜそんなところに師匠が?」

「美琴からの電話で要領を得ないけど、黒姫組の事務所にいるみたい。

たぶん見張られているので、はっきりしたことが言えなかったのだと思うけど、黒姫組の事務所よ。

私も今から道場に行くから」 その日の朝食後に、また彫甲は組長室に呼ばれた。

今日も彫斉が出張仕事で来ていた。



「彫甲君、気分はどうかね」

「いい気分のわけないでしょう。

この寒い時季、暖房もない部屋に閉じ込められているのだから」

「だが美琴と一緒に寝られていいだろう。

美琴はわしのお古とはいえ、なかなかいい女だぜ。

あ、そういえばわしと彫甲君は義兄弟になったんだったな」 田所は卑猥な笑い方をした。



「おい、彫甲。

昨日いろいろ考えてみたが、俺の屈辱を晴らすには、おまえを素っ裸にして栄のど真ん中か名古屋駅の前におっぽり出す、というのがいいかもな。

おまえの全身の彫り物が披露できて、さぞ人気者になれるぞ。

それがいやなら、俺を辱めた詫びとして、1,000万払うか? それとも指1本もらおうか。

しかしおまえの汚い指など、欲しくもないな」 彫斉の卑しそうな言葉を、彫甲は無視をした。

とはいえ、内心ひやひやし、同時にはらわたが煮えくりかえっていた。

彫斉ごときにここまで言わせたことが情けなくもあった。

彫甲が田所や彫斉と話している間、美琴は監禁部屋に一人でいた。

若い三下が見張りについている。

その三下がスマートフォンでしきりにメールの文章を打っていた。



「あら、あなた、恋人にメールでも送っているの?」 美琴が三下に声をかけた。



「はい。

俺の彼女ですけどね。

事務所に詰めると、なかなか会えなくて、ついメールを送っちゃうんですよ」

「あなたのスマホ、iPhoneなの?」

「はい。

iPhone4です」

「あら、私と一緒ね。

私もiPhone4なのよ。

おばさんにはなかなか難しくて、最近やっと使い方がわかってきたところなの」

「おばさんだなんて。

美琴さん、まだまだお若く、美しいです」

「あらあら。

お世辞言っても何も出ないわよ。

まあ、こんなとこに閉じ込められているんじゃ、何も出しようがないけど」

「すみません。

俺だってこんなことしたくはないけど、兄貴からの命令ですからね」 美琴は三下に親しく話しかけた。

三下は以前から親分の愛人として、美琴のことを知っており、その美しさに憧れていた。



「ところで、私もずっとここに監禁されて、お店のこと、何もできないの。

昨日は休みだったからよかったけど、今日も行けないようなら、店の従業員に連絡しなきゃいけないのに、あいにく私のiPhone、バッテリーが切れちゃったの。

もし充電器があったら、ちょっと貸してくれない?」 美琴は三下に頼んだ。

美琴自身は充電器を持ち歩くことはないが、その青年が持っているといいのだけど、と淡い期待を抱いた。

スマホは従来型の携帯電話に比べ、バッテリーの持ちがわるい。

ひょっとしたらインターネットや通話で使う機会が多い若い人なら、充電器を持っているかもしれないと思った。



「あ、いいですよ。

鞄に入っているから、ちょっと取ってきます」 気がよさそうな三下は引き受けてくれた。

いったん監禁部屋の前から、若い者がたむろしている大部屋に戻り、三下は充電器を持ってきた。

大部屋には彫斉に彫ってもらうために待機している者もいる。

この三下も、もし時間が空いていれば、小さな絵でもいいから彫ってもらおうと考えていた。

鉄格子の隙間から充電器を受け取り、美琴は早速充電をした。

監禁用の部屋でも、コンセントは付いていた。

ある程度充電をしたところで、美琴は充電器のプラグをつないだままの状態で、武甲山に電話をかけた。

電話番号はメモリーに入れてある。



「もしもし、私、美琴ですけど、お店ですか?」 美琴は自分の店にかけているように装った。



「はい、武甲山ですが。

美琴さんなの?」 電話に出たのは美好だった。

美琴はうまいこと美好本人が出てくれてよかったと思った。

美琴から電話ということで、美好は驚いた。

美琴の声を聞くのは初めてだ。

思ったより低い声だ。

梨奈たちから聞いた話から作り上げた美琴のイメージは、もう少し甲高い声の女を想像していた。

一瞬、堂々と店にかけてくるとは、なんて厚かましい女だろうと思った美好だが、ひょっとしたら夫の行方不明と関係があるのかもしれないと考えた。



「私、今日お店に出られないの。

今、黒姫組の親分さんのところにいるのよ。

彼も一緒にいるの。

わるいけど、お店、お願いね」

「美琴さん、何言っているの? もう少しわかるように説明してちょうだい」

「わるいけど、私も忙しいの。

柴田の黒姫組よ。

今日はお店、行けないからよろしく」 それだけ言って、美琴は電話を切った。

一方的にしゃべって、いったいどういうつもりなのだろう。

お店に出られないとはどういうことか? 柴田の黒姫組、と言っていたわね。

彼も一緒にいるの、とも言っていたけど、彼というのはきっと光廣のことね。

美好は美琴が言っていたことを反芻した。

ひょっとしたら何かトラブルがあって、夫と美琴は黒姫組の事務所に連れて行かれた、ということか? 確か黒姫組の事務所は南区の柴田にあるはずだ。

美琴が一方的にしゃべって、電話を切ってしまったのは、あまり長く話すことができないからか。

それとも彫甲の妻である私に電話をかけていたということを、近くにいる人に知られたくなかったのか。

ということは、美琴は見張られている。

そしてその場には光廣もいる。

美好は想像力を膨らませた。

夫は何かのトラブルで黒姫組の事務所に監禁されている。

美好はそう結論づけた。

美好は武甲山を板前やウエイトレスに任せ、彫甲入れ墨道場に駆けつけた。

店が忙しくなる11時半前に、ランチメニューの天ぷら定食を4人前、彫甲入れ墨道場に届けるよう言いつけた。

武甲山は出前を受け付けていないので、特別の措置だった。

武甲山は六人で切り盛りしており、それほど大きな店ではないが、時間帯によっては満席になり、外に行列ができることもある。

出前にはとても応じられない。



「師匠、黒姫組の事務所に連れて行かれているんですか?」 美好が道場に着くなり、梨奈が尋ねた。



「どうもそうみたい。

美琴から電話があったけど、あまりはっきり言わなかったの。

たぶん見張りがいたので、詳しいことを言えなかったのね。

美琴は何かの店をやっていて、そこの従業員に連絡しているような風を装っていたのだと思うわ。

今、黒姫組の親分さんのところにいるから店に出られない、なんて言い方していたから。

その後、電話機に表示された電話番号に何度も電話をかけたけど、電源が切られているみたい。

やはり監視されているのでしょうね」

「でもどうして師匠が黒姫組などにいるんでしょうね? 黒姫組といったら、秋吉会や中京仁勇会とは反目している組織でしたね」 彫光喜が美好に確認をした。



「結局彫筑師匠や彫浪さんが心配していたとおりになった、ということでしょうね。

あの人は口が過ぎるから、どこで恨みを買っていたかわからないわ」 そしてこれからどうするかを話し合った。

美好は彫青龍、彫大海にも連絡を取った。

春日井道場も今日は休業日なので、二人はすぐに八事道場に駆けつけた。

彫青龍は春日井道場の近くのマンションに転居しており、1時間ほど後に彫大海のコルトに便乗してやってきた。



「これからどうするかですね」 彫甲を除く全員が集まったので、美好が口火を切った。



「無理やり監禁されているなら、逮捕・監禁罪になりますね。

警察に通報するわけにはいきませんか?」 梨奈が最初に言った。



「まずは美琴が言っていたことが本当かどうか、確認する必要があるわね。

本当に黒姫組に監禁されているという確証をつかまなければ、警察に通報するわけにもいかないわ」

「でも、黒姫組に電話で問い合わせるわけにもいかんでしょうね。

本当のことを言うわけないですし。

でも、師匠を監禁して、何か要求するつもりかもしれません。

それなら、あっさり師匠がいることを認めるかもしれませんね」 彫光喜が意見を述べた。



「これから俺が黒姫組の事務所に乗り込んで、確かめてやろう」

「青龍が出ていっては、余計問題がこじれそうね。

青龍はけんかっ早いから。

こんなことが起こることを、彫筑師匠は前から心配していたようなので、師匠にも連絡をしておいたほうがいいわね」 まずは彫筑に事の次第を打ち明けることにした。

彫筑の道場に電話をすると、彫筑はこれから名古屋に行くと主張した。



「そんな。

まだはっきりしたわけではないのに、師匠のお手を煩わすわけには……」 美好は困惑した。



「なに、わしはもう引退したも同然じゃ。

道場は弟子たちに任せておけばいい。

たまには名古屋にも行ってみたいしな。

彫浪にも会いたいし」 彫筑は美好に気を遣わせないような言い方をした。

彫筑は白内障を患い、あまり仕事を受けていない。

道場の運営は弟子たちが中心となっている。

福岡空港から県営名古屋空港行きのチケットがすぐに取れたので、彫筑は名古屋に飛んだ。

飛行機だと福岡から名古屋まで、わずか1時間20分だ。

彫筑の道場から福岡空港までは地下鉄で行くことができる。

しかしこのときは、弟子の一人が彫筑をシーマで空港まで送ったのだった。

美好と彫青龍が、BMWで名古屋空港に彫筑を迎えに行った。

運転は彫青龍に任せた。

青龍はいつも軽ワゴンで走っているので、大型のBMWのクーペは車両感覚がかなり違う。

青龍は師匠のクルマを傷つけないよう、丁寧に運転をした。

美好のほうがBMWには慣れているが、美好は二代目彫甲として、あえて彫青龍に運転をさせた。



「福岡は雪だったが、名古屋も雨でけっこう寒いな」 美好に会って、開口一番、挨拶代わりに彫筑が言った。

やや日が長くなってきたとはいえ、もうずいぶん暗くなっていた。

小雨が降っていたので、なおさらだ。

午後6時頃、彫筑が八事道場に現れた。

梨奈も彫光喜も彫筑に会うのは初めてだ。

彫浪より何歳か年上の彫筑の、その威厳に圧倒された。

しかし好々爺といった一面もあった。



「こちらは最近彫り師となった彫光喜と彫奈です。

二人ともとてもいい腕ですよ。

そしてこちらが修業中の彫光洋です。

けっこう根性があって、将来が楽しみです」 美好は新顔の三人を彫筑に紹介した。

三人は

「初めまして。

よろしくお願いします」 と挨拶をした。



「うむ。

三人とも、なかなかいい目をしておる。

彫甲もいい弟子を持ったもんじゃな。

しかし女性の頭に大きく彫り物をするとは、あいつは何考えているのだ。

わしも彫甲の頭に彫ったが、弟子入りも決まっていないうちに、有無を言わせず、はやりすぎだ。

彫奈君もよく耐えたものじゃ。

わしが許すから、髪を伸ばしなさい。

光洋君もだ」 彫筑は弟子のやり方に苦言を呈し、梨奈と洋子に髪を伸ばすことを許可した。



「彫奈君、君が彫浪を通じて、わしの頼みを引き受けてくれていたんじゃな。

彫浪から報告を受けている。

ご苦労だった。

めんどうなことを頼んで、すまんかった」 彫筑は梨奈の労をねぎらった。

紹介が済んだあと、美好は武甲山に行き、彫筑をちゃんこ料理でもてなした。

ちゃんこ鍋をつつきながら、事件の対応を考えることにした。



「ちゃんこは以前、時々彫甲が本場物を作って、道場のみんなに振る舞ってくれたな。

彫甲が名古屋に行ってから、ずっと食っていないから、懐かしいわい」 彫筑はちゃんこ料理を喜んだ。



「ところで彫甲の失踪のことだが、間違いなく黒姫組とかいうところに監禁されているのかね?」 彫筑は事件について尋ねた。



「まだ確証はつかめていません。

小坂美琴からの電話がその根拠ですが、美琴ははっきり光廣がそこに監禁されていると言ったわけではありません。

おそらく見張られていたので、遠回しにしか言えなかったのだと思いますが。

だから私たちも動くことができないのです。

そんないい加減な情報だけで警察に訴えることもできませんし」

「だが、彫甲からは何の連絡もないのだね」 彫筑は美好に確認をした。



「はい。

一昨日の夜から、全く連絡がありません。

こちらから携帯に電話しても、つながらないのです」

「そうか。

あいつはちゃらんぽらんに見えても、やることはやる男だ。

それが2日間も全く連絡がなく、姿も見せないというのは、やはり監禁されている可能性が高いな。

それをどうやって確認するかだ。

はっきりしないことには、わしもうかつに動くことはできん」 彫筑もすぐには打開策を思いつかなかった。

彫筑は暴力団とは関係がないが、ある右翼の結社を率いている。

名古屋にもその系列の右翼団体があり、彫筑の一声で、右翼を動かすことができる。

右翼といっても、暴力団系の団体や、より危険な半グレ集団もある。

だが彫筑が率いる右翼団体は、真に国の行く末を憂える、比較的まじめな団体が多い。

場合によっては、その右翼組織を使い、黒姫組に圧力をかけることも考えている。



「あの、彫筑師匠。

私が黒姫組に乗り込んでみましょうか」 梨奈が遠慮気味に提案した。



「なに? 彫奈君だったな。

君が黒姫組に乗り込むだと?」

「はい。

そして師匠がいるかどうか、直接確認してみます。

女の私なら、相手は多少油断すると思います」

「だめよ。

彫奈にそんな危険なこと、させられないわ」 美好が即座に反対した。



「そうだ。

彫奈に危ない橋を渡らせるわけにはいかない。

俺が行くよ。

俺も空手をやっている。

師匠にはかなわないまでも、いざというときは、自分の身ぐらい守れる」 彫光喜は自分が行くと志願した。



「しかしここは彫奈が言うとおり、男が行くより、女の彫奈のほうが、相手の警戒も緩むだろう。

しかし場合によっては、危険な目に遭うかもしれないのじゃぞ。

君は彫甲のために、命を張れるか?」 彫筑は梨奈の覚悟を確認した。



「私も彫甲師匠の弟子です。

やります」 梨奈はきっぱりと断言した。

そう言いながらも、梨奈は脇の下にじっとりと冷たい汗を感じた。

かなり緊張していた。

彫筑は決断した。



「よし。

彫奈に任せよう。

だが君の使命は、彫甲が黒姫組にいるかどうかを探るだけだ。

それ以上のことはするな。

もし君まで監禁されても、必ずわしが救い出す」 彫筑は作戦を練った。

そして名古屋地区を拠点とする、彫筑傘下の右翼組織“愛国青護会”に連絡を取った。

組織の代表は彫筑が名古屋に来ていると知り、

「すぐにご挨拶に参ります」 と恐縮した。

彫筑は愛国青護会の代表に、指令があればいつでも出動できるように準備をすることを命じた。

ただし、街宣車を出しても、軍歌を大音量で流すなど、市民に迷惑をかける行為をしないように伝えた。

相手は暴力団の黒姫組と聞き、代表は緊張した。



「今回は戦争をしに行くわけではない。

万一に備え、相手を牽制するためなので、極力暴力は避ける」 彫筑は釘を刺した。

武甲山を出てすぐに、梨奈と彫光喜はR2に乗って、南区柴田にある黒姫組の事務所に向かった。

彫筑と彫青龍、美好もBMWで後を追った。

洋子も一緒に行くと主張したが、許可されなかった。

洋子は彫大海と共に、道場で待機だ。

いざというときの、連絡係だと説得された。

洋子は彫大海に隠れて、本田に

「牡丹さんがこれから黒姫組の事務所に殴り込む」 と大げさに電話した。



「乗り込む」 と言うべきところを、

「殴り込む」 と伝えてしまった。

本田は疾風韋駄天会で、動ける奴らを動員して、柴田に駆けつけると約束した。

暴走族が暴力団に対し、どれだけのことができるかわからないが、少しでも梨奈や彫光喜の助けになりたいと思った。

柴田は名古屋市の南の外れで、東海市との境界の近くだ。

ちょうど帰宅ラッシュの最後のころの時間帯に引っかかり、かなり時間がかかった。

彫光喜は黒姫組の事務所から少し離れたところにR2を停め、梨奈を降ろした。

冷たい雨は止み、雲間から半月や星が覗いていた。



「それじゃあ、行ってくるわ」

「梨奈、気をつけて。

暴力団の事務所に乗り込むのだからね」

「できるだけ穏やかに話してくるわ。

でも、いくらこちらが友好的な態度を取っても、相手がどう受け取るかね。

まさか殺したりはしないと思うけど。

もし師匠がいるなら、空メール送るから。

1時間経っても連絡しなかったら、私も捕まったと思って、彫筑師匠に連絡してね。

あとは彫筑師匠に任せるわ」 梨奈は要塞のような外見の、黒姫組の事務所に向かった。

梨奈の胸はどきどき高鳴っていた。

脚もガチガチだった。

梨奈はそれこそおしっこをちびりそう、というほどの恐怖におののいていた。

これまでの人生の中で、最も緊張しているのではないかと思われた。

それでもここで踏ん張らなくっちゃ、と自身を鼓舞した。

師匠の客として、暴力団員を接待したことは何度もある。

彼らは皆、梨奈には優しく接してくれた。

道場に来た暴力団関係者に限っては、怖いと感じたことはなかった。

しかし今度はわけが違うのだ。

一人で暴力団の事務所に乗り込んでいく。

殺されるとまでは思わないが、それでもかなりひどいことをされるかもしれない。

梨奈は覚悟を決め、黒姫組事務所の玄関前に立った。

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Posted at 2013年08月30日 20時01分