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刺青師牡丹-第8話 弟子入り

 
 
第8話 弟子入り
 
▼前回までのあらすじ------------------------------------
ついに、念願のプロデビューを果たした、牡丹。
しかし、早速クレーマーの様な客があらわれて・・・
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「ひでぇ話だな。その山木とかいうやつのおかん、ふざけとるがや。新年早々失業なんて、とんでもないぜ」
 
梨奈の話を聞き、政夫は激怒した。
 
 
「それで梨奈、ピオニー辞めちゃったの?」
 
七海も心配そうに言った。
 
 
今はバイクギャングロッカーズの練習が終わり、メンバー全員でファミレスで食事をしている。
 
梨奈はそこでことの顛末を話した。
 
 
「しかたなかったの。私が辞めないと、ピオニー全体に迷惑がかかるし。もちろん店長さんは思いとどまるように言ってくれたけど、でもやっぱり私が身を引かなければ、その場が収まりそうではなかったし」
 
「だけどひどいわ。わるいのはいい加減なケアをしてた自分の息子じゃないの。私も腹が立っちゃう。梨奈さんも徹底的に抵抗してやればよかったのに」
 
沙織も憤懣やるかたない、というふうだった。
 
 
「それで、これからどうするんだい? もしよかったら、俺たちもバンドの知り合いをつてに、タトゥー彫りたい人、紹介してやるよ。ワンポイント入れたい、というやつが何人かいるから。今の牡丹なら、一時間10,000円取ってもいいんじゃないかな?」
 
達義が梨奈にプロのタトゥーアーティストとして、自宅で開業することを提案した。
 
 
「ありがとうございます。もしお客さんを紹介していただけるなら、よろしくお願いします」
 
「だけど、フェニックスみたいな有名なスタジオならともかく、個人のタトゥーアーティストだと、なかなか経営厳しいみたいだね。何せ今は不況で、タトゥー入れたくてもできない、ってやつ、多いから」
 
「そうだな。俺が知っとる彫り師も、腕はまずまずだけど、なかなか客が来なくて、ほかにアルバイトしないと食ってけないって言っとるし」
 
富夫と康志も最近のタトゥーアーティストの厳しさに言及した。
 
 
「そういえば、八事の彫甲とかいう彫り師が、女性彫り師を募集してたとか聞いたけど。知り合いがそこで彫ってもらったときにそんなことを聞いたと言っとったぜ。けっこう腕もいいし、おもしろいおっさんだったとそいつが言っとった。八事なら梨奈のアパートから近いから、一度話だけでも聞いてみたらどうだ?」
 
そう言いながら政夫がスマートフォンで彫甲を検索した。
 
 
「あったあった。こいつだ。八事駅から徒歩五分。“女性彫り師募集”とある」
 
政夫は見つかった彫甲のホームページを梨奈に見せた。
 
 
スタジオは地下鉄鶴舞線と環状線が交差する、八事駅の近くだ。
 
梨奈のアパートからも、実家からも便利な位置にある。
 
八事は高級住宅地であり、また近くに大学が多く、学生の街でもある。
 
 
梨奈は彫甲のことは全く知らないが、ホームページにある作品を見ると、非常にうまいと思った。
 
 
フェニックスタトゥースタジオはどちらかといえば、洋物が主体だ。
 
コージは和柄も引き受けるが、ジュンはアメリカンタトゥーといわれる洋物を得意としている。
 
沙織の背中を飾る天女も、和柄とはいえ、洋風なセンスを取り入れている。
 
梨奈の鳳凰もそうだ。
 
 
それに対して、彫甲は和柄が多かった。
 
もちろんワンポイントの洋物も素晴らしかった。
 
しかしそのホームページに載っていた彫甲の顔は、長髪で髭を伸ばし、あまり品がいい顔だとは思えなかった。
 
けれども顔だけで人を判断してはいけないと反省した。
 
芸術家らしい顔と言えないでもない。
 
梨奈は一度彫甲のところに話だけでも聞きにいってみようと思った。
 
けれども、その前にフェニックスに挨拶に行くのが筋だろう。
 
これまでコージやジュンにいろいろとお世話になっているので、素知らぬ顔で彫甲のところに行くわけにはいかない。
 
 
「でも、ピオニーはけっこう退職金くれたから、すぐ生活に困るということはありません。これからどうするか、いろいろ考えてみます。明日にでもフェニックスに挨拶に行ってきます。店長さんは、二、三年経ってほとぼりが冷めたころ、もしよかったらまた来てください、と言ってくれましたし。ほんとに店長さんは私によくしてくれました。私のこと、とても期待してくれたのに、こんな形で退職になって、残念です」
 
そう言いながら、梨奈は涙を流した。
 
新しく仕入れたドイツ製のデジタルマシンも、餞別として梨奈に譲ってくれた。
 
カートリッジなど消耗品も社員価格で安く売ってくれるという。
 
 
ピオニーの人たちも、バイクギャングの仲間たちも梨奈のことを心から心配し、親身になってくれた。
 
梨奈はそのことがありがたかった。
翌日、梨奈はフェニックスタトゥースタジオに寄った。
 
 
「梨奈さん、ピオニー辞めちゃったんだって?」
 
ジュンが心配そうに声をかけた。
 
ピオニーを辞めたことはもう電話で報告してあった。
 
 
「そういうトラブル、タトゥーの世界でもたまにあるんですよ。まあ、多くはアーティスト側の衛生への認識が不十分で、針を使い回してお客さんが肝炎などに感染してしまったとか、年齢確認をおろそかにして、18歳未満に彫ってしまったとかいう、言い逃れができないことなんだけど。そういうことが起こると、タトゥー業界全体に逆風が吹くから、アーティストとしては十分注意してほしいんだよな。でも、梨奈さんの場合は、本当に災難だったね」
 
コージも梨奈に同情した。
 
 
「梨奈さんだったらぜひうちに来てほしいと思うんだけど、リョーコが間もなく三人目のアーティストとしてデビューする予定でね。以前のようにお客さんがたくさん来ればいいけど、今は不景気だから、アーティストを四人も置く余裕がないんですよ」
 
「お気遣いありがとうございます。リョーコさんもプロデビュー、もうすぐなんですね。おめでとうございます」
 
梨奈はリョーコに祝いの言葉を言った。
 
リョーコは恥ずかしそうに俯いた。
 
 
「梨奈さん、これからどうするんですか? 何か当てがありますか? それとも自宅で開業するとか。梨奈さんの腕なら、十分やっていけるとは思うけど、でも個人のアーティストはけっこう厳しい状況ですから」
 
ジュンが梨奈のこれからを尋ねた。
 
 
「そうですね。バイクギャングの人たちも言ってましたけど、やっぱりアーティストとしてやっていくのは厳しいみたいですね」
 
「うちは今新しくアーティストを雇うことはできないけど、うちの本家にあたる彫浪師匠に訊いてみようか? 以前彫り師募集してましたから」
 
そう言ってコージは師匠に彫り師募集について、電話で問い合わせた。
 
しかし最近新しい弟子が二人入ったので、今は募集していないとのことだった。
 
コージは以前、彫浪のもとで修業し、独立してフェニックスタトゥーを開設した。
 
ジュンはフェニックスタトゥー設立後間もなく、アーティスト見習いとして採用された。
 
 
梨奈はコージに丁重にお礼を言った。
 
そして彫甲のことを尋ねてみた。
 
 
「実はバイクギャングのマサさんが、彫甲さんという彫り師さんが女性彫り師を募集してるというので、一度訪ねてみたらどうか、と言ってるんですが。何でもマサさんの知り合いが彫甲さんで彫ってもらったんだそうです」
 
「ああ、八事の彫甲さんね」
 
コージはすぐに反応した。
 
 
「ご存じですか?」
「いや、直接には会ったことないけど、最近名古屋で売り出し中の彫り師さんですよ。福岡のほうで修業して、何年か前に名古屋に来たと聞いてます。うちのお客さんにも、彫甲さんで彫ってもらったという人が来てるけど、腕はいいですよ。洋彫りでは僕もジュンも絶対負けない自信はありますが、和柄じゃちょっとかなわないな。僕たちは基本的にはアメリカンタトゥーで、得意分野が違うから、比較にはなりませんけどね」
 
「一度話だけは伺ってみようと思うんですが、どうでしょうか? 私、これまでコージさんやジュンさんにいろいろお世話になっているので、いきなり他の流派の彫り師さんのところに行くのは、コージさんやジュンさんに対して、ちょっと失礼かな、とも思うんですが」
 
「僕としてはかまいませんよ。もし彫甲さんのところで雇ってもらえるなら、チャンスじゃないですか。和彫りの勉強もできるし。たとえ梨奈さんが他の一門に行っても、僕はこれからも梨奈さんのこと、ずっと親友だと思っていますから。ジュンもリョーコもそうだろ?」
 
コージの呼びかけに対し、ジュンもリョーコも「もちろんです」
と応えた。
 
 
「ありがとうございます。それじゃあ、一度彫甲さんのところに行って、話だけでも聞いてみます。何かあれば、報告します」
 
梨奈はたとえ別の一門に行っても、ずっと親友だと言ってくれたことがありがたかった。
 
バイクギャングにしても、フェニックスタトゥーにしても、本当に素晴らしい仲間たちに出会えたことを神に感謝した。
 
梨奈は特定の宗教を信仰しているわけではないが、神や霊の存在を信じている。
 
フェニックスタトゥーを出たあと、梨奈は大須の商店街を歩いた。
 
電脳街やファッションの店などを覗いてみた。
 
携帯電話の売り場を見て、そろそろスマートフォンに買い換えようかとも思った。
 
梨奈はまだフィーチャーフォンを使っているが、それほど不便を感じていない。
 
携帯電話では定額のパケット契約をしていないので、インターネットは自宅のパソコンでやっているが、それで十分だった。
 
携帯電話は通話とメールができればよい。
 
 
七海が推薦するレストランに入り、味噌カツ定食を注文した。
 
それから大須観音で、いいスタジオに就職できるよう祈願した。
 
大須観音の近くの和菓子店で、おやつに名古屋名物のういろを買ってから帰宅した。
 
大須から自宅までは、歩いて30分ほどなので、地下鉄には乗らず、運動のために歩くことにした。
 
日が沈み、ぐっと冷えてきた。
 
 
大須近辺にはタトゥースタジオが多いが、梨奈はフェニックスタトゥーに世話になっているので、あまり他のスタジオに顔を出さないほうがいいかなと考え、まだほかのスタジオに行ったことがない。
 
ただ、一生消せないタトゥーを彫る場合は、多くのスタジオを訪ね、自分が納得できるアーティストが見つかるまで、見て回るべきである。
 
 
自宅に着いてから、梨奈はさっそく彫甲に電話した。
 
女性彫り師募集のことを尋ねると、もし明日来られるのなら、午前一〇時ごろ来てくれ、とのことだった。
 
平日は午後一時からの営業なので、午前中なら時間が取れるという。
 
それを聞いて、梨奈は胸がどきどきした。
 
梨奈はバイクギャングの仲間に、「フェニックスタトゥーさんの了承を得たので、明日彫甲さんのところに話を聞きに行きます」
とメールした。
 
その日のうちに全員から「頑張れよ」
といった返信が届いた。
 
 
 
翌朝、梨奈は一〇時より少し早めに彫甲の道場に着いた。
 
場所はホームページで調べてある。
 
道場は二階建ての長屋の端だ。
 
その長屋は一階が店舗、二階が居住空間という造りになっている。
 
隣は喫茶店だった。
 
看板は “彫甲入れ墨道場”という表記だった。
 
 
ひょっとして作品を見せろと言われるかもしれないので、自分が彫った作品の写真を小さなアルバムに入れて持っていった。
 
梨奈は「ごめんください」
 
と声をかけ、中に入った。
 
 
「おう、あんたが速水梨奈君か。待ってたぞ」
 
長髪で髭を伸ばした、藍色の作務衣に身を包んだ男が声をかけた。
 
ホームページで見た通りの顔立ちだ。
 
やはりあまり清潔なイメージではない。
 
しかし人なつこそうな笑顔だった。
 
背は180センチぐらいで、横幅もある。
 
体重は100キロはあるのではと思われた。
 
バイクギャングロッカーズの中で一番体格がいい富夫より、さらに大きく、威圧感があった。
 
年齢は四〇代だろう。
 
彫甲は中の応接セットに梨奈を案内した。
 
 
「おい、光喜、客だ。お茶を二つと何か茶菓子を頼む」
 
彫甲は奥のほうに声をかけた。
 
奥から「はい」
 
という声が聞こえた。
 
 
「うちは今弟子が三人いるけど、男ばかりなので、女の彫り師さんを欲しいと思ってね。
 
今は女の客もけっこう来るので、やはり女性彫り師がいるほうが、女性客が店に入りやすいからね」
 
彫甲はにこにこ笑いながら言った。
 
第一印象は髭や長髪のせいで、ちょっとだらしなく感じたが、笑顔がいいなと思った。
 
まあ、芸術家と考えれば、長髪や髭はありかな、と梨奈は自身を納得させた。
 
 
「お茶、お待たせしました」
 
若い男性が湯吞みとなごやんという和菓子を盆に載せて持ってきた。
 
梨奈はなごやんが好物だ。
 
 
「女性彫り師の応募で来てもらった速水梨奈君だ。こちらは修業中の彫光喜(ほりみつき)」
 
「彫光喜です。光喜はひかりによろこぶと書きます」
 
「速水梨奈です。
 
よろしくお願いします」
 
彫光喜を一目見て、梨奈は胸がキュンと高鳴った。
 
彼は梨奈より少し年上に見えるなかなかの二枚目だった。
 
髪は短く刈り上げ、彫甲とは違って清潔感がある。
 
彫甲ほどではないが、背も高い。
 
彼も藍色の作務衣を着ていた。
 
梨奈はすてきな人だなと思った。
 
 
「ところで、うちに応募した理由は何かな?」
 
お茶を一口すすってから、彫甲はさっそく面接に入った。
 
 
「はい。
 
彫甲先生のホームページを見たら、女性彫り師募集のお知らせがあり、すてきな作品を彫られる和彫りの先生なので、ぜひ私も先生のもとで勉強したいと思いました」
 
失業して、友達に募集のことを聞いた、とストレートに応えてはまずいと思い、梨奈はそう言い繕った。
 
 
「なるほど。それで入れ墨の経験は?」
 
「はい、ワンポイント程度ならこなせます」
 
そう言いながら、梨奈は用意しておいたアルバムを見せた。
 
 
「これはみんなあんたが彫ったのか?」
 
彫甲は一枚一枚丁寧に目を通した。
 
 
「はい。まだまだ拙いですが、私が彫りました」
 
「ふむ。まあまあだな。即戦力にはなりそうだ。でも、うちの彫り物とは作風が全く違うので、うちでやるなら、まずうちの作風を勉強してもらわねばならんな。うちは和彫りが主だから、額や見切りも覚えてもらわねばならんし」
 
「はい。もしこちらでやらせてもらえるのなら、一生懸命勉強します」
 
梨奈の脳裡に、さっき会った彫光喜の面影が浮かんだ。
 
あのすてきな男性と一緒にやりたいと思った。
 
 
「うちでやるのなら覚悟が必要だぞ。その覚悟があるか?」
 
「はい、頑張ります」
 
「よし、ではその覚悟をさっそく見せてもらおう。おい、大海」
 
彫甲は今度は先と違う名前を呼んだ。
 
しばらくして、大柄な、坊主頭で無精髭の男がはさみとバリカンを持ってきた。
 
 
「弟子の彫大海だ。さっきの光喜の兄弟子だ」
 
たいかい、光喜と聞いて、梨奈はおや? と思った。
 
確かそんな名前の大関がいたかな。
 
相撲が好きな梨奈は、彫甲の弟子の名前は、ひょっとしたら力士の四股名からとったのかな、と気がついた。
 
それより、彫大海が持ってきたはさみとバリカンは何を意味するのだろうか?
 
「おい、大海、今からこいつの頭を丸刈りにしろ」
 
丸刈りと聞いて、梨奈はびっくりした。
 
それに彫甲の言葉遣いがぐっと乱暴になっている。
 
 
「ちょっと待ってください。今から丸刈りですか? それじゃあちょっとひどいです」
 
梨奈は彫甲に抗議した。
 
 
「さっき覚悟があると言ったのは嘘かね? うちの門下生は、丸刈りと決まっているんだ。女だって例外ではない。丸坊主になる覚悟もないようじゃあ、うちではとても勤まらん。不合格だ。とっとと帰りなさい」
 
彫甲はにべもなく言った。梨奈はしばらく俯いていた。さっきの彫光喜という青年のことが脳裡をよぎった。
 
「丸刈りにしてください」
 
梨奈は目に涙をためて言った。
 
自慢の長い髪をばっさり切ってしまうのは辛かった。
 
何ヶ月も経てば、髪はまた伸びる。
 
しかしここでは一人前の彫り師として認められるまでは、ずっと丸坊主のままでいさせられそうだ。
 
梨奈にはそれが辛かった。
 
けれども、彫光喜と一緒にやりたいという思いがあった。
 
ひょっとしたら私は一目見ただけのあの青年に、恋をしてしまったのだろうか。
 
 
彫大海は床に新聞紙を敷き、梨奈の長い髪をはさみで切った。
 
髪がばさばさと新聞紙に落ちる音を聞くたびに、梨奈の心が締め付けられた。
 
彫大海は小声で、
 
「ごめんな。これも師匠の命令だから。許してくれよな」
 
と梨奈に申し訳なさそうに謝った。
 
 
ある程度はさみで短くしてから、次はバリカンで丸刈りにした。
 
さらにローションを塗り、安全カミソリで頭を剃り上げた。
 
梨奈の頭は尼さんのようにつるつるになった。
 
鏡で青々としている自分の頭を見て、梨奈の目からは、大粒の涙が流れた。
 
 
こんな情けない姿、とてもバイクギャングの仲間たちやフェニックスタトゥーの人たちに見せられない。
 
七海には思いっきり笑われそうだ。
 
髪が伸びるまで、両親のもとにも帰れない。
 
 
しかし試練はそれだけではなかった。
 
梨奈は入れ墨の仕事場に来るように命じられた。
 
 
彫甲は梨奈の頭に転写用紙を押しつけようとした。
 
 
「ひょっとして、頭にタトゥーを彫るんですか?」
 
転写用紙の絵を見て、梨奈は驚いた。
 
そこには梨奈が大の苦手としている、大きなジョロウグモと蜘蛛の巣の絵があった。
 
 
「うちはタトゥーとはいわない。“入れ墨”だ。タトゥーというのは、つまらん落書きのことをいうのだ。入れ墨は刑罰に使う言葉だとか、刺青(しせい)と書くべきだとかいうが、読んで字のごとく、入れ墨こそ、最も本質を示している。もしくは彫り物か。うちでやりたいのなら、まずその言い方から改めるんだ」
 
梨奈の質問には答えず、彫甲は剃り上げた梨奈の頭に、蜘蛛の絵を転写しようとした。
 
 
この人、本気で私の頭に蜘蛛を彫る気なのかしら。
 
彫光喜さんも彫大海さんも、髪は短く刈ってはいるけど、タトゥーは入ってなかった。
 
それなのに、女の私にだけ彫るなんて、ひどい。
 
それも大嫌いな蜘蛛の絵なんて。
 
 
「待ってください。蜘蛛はいやです。私、蜘蛛、だいっ嫌いなんです」
 
梨奈は蜘蛛の絵には抵抗した。
 
 
「いやなら今すぐ帰れ。そんないい加減な覚悟ではうちではやっていけん。強制はしない。ここで帰るか、頭に彫ってうちの門下生になるか、あくまでおまえ自身の意志で決めろ」
 
梨奈は丸坊主にまでされて、ここでお払い箱ではあまりに悲惨だと思った。
 
また彫光喜の顔がちらついた。
 
やはり私は光喜さんに一目惚れしてしまったんだ。
 
 
そのとき、梨奈は大名古屋タトゥー大会で知り合った、頭に牡丹の花を彫った聡美という女性のことを思い出した。
 
聡美とはときどきメールのやりとりをしている。
 
 
「せめて牡丹にしてもらえませんか? 蜘蛛はいやですけど、牡丹の花なら我慢します」
 
梨奈の気持ちとして、頭を剃り上げられたのなら、このついでに聡美のように、きれいな牡丹の花を彫ってもいいなと思った。
 
 
彫甲はしばらく考えていたが、「まあ、いいだろう」
と言った。
 
そして新たに牡丹の花の転写シートを作った。
 
彫甲のスタジオには、転写シートを簡単に作れる専用のコピー機がある。
 
彫甲はサンプルの中から、大きな牡丹の花を選んで、転写用紙にコピーした。
 
その牡丹の花は、梨奈の身体に彫ってある、ジュンの描いた写実的な牡丹とは感じが違うが、それはそれできれいな牡丹だと思った。
 
 
牡丹の花は梨奈の頭頂に転写された。
 
梨奈は諦観してエステベッドに俯せになった。
 
リクライニング式になっており、頭に彫りやすいよう、角度をつけて、頭の部分を高くした。
 
彫甲は伝統的な和彫りというので、手彫りかなと思ったが、マシン彫りだった。
 
 
タトゥー大会で、聡美はラインを彫ってもらうときは、それほど痛くなかったと言っていたが、実際自分が彫られて、確かに背中よりずっと楽だった。
 
ただ、ぼかしのときが痛かったという。
 
筋彫りは30分ほどで終わった。
 
すると今度は頭の前のほうに、別の牡丹を転写された。
 
 
「え、一つだけじゃなく、まだ彫るのですか?」
 
梨奈はたまらず質問した。
 
 
「頭いっぱいに、牡丹四つに蝶を一つ入れる。しっかりと梨奈の決意を見せてもらうからな。大丈夫だ。髪が伸びれば、見えないようにするから」
 
蝶も入れるというが、自分自身が蜘蛛の巣にかかった蝶のようなものだと思った。
 
 
このオヤジ、変態か? 梨奈は頭痛がしてきた。
 
やはりこんなところに来るべきではなかったと、後悔の念が頭をもたげた。
 
彫光喜に思いを馳せたばかりに、大変なことになってしまった。
 
しかし、もう何ともならない。
 
頭に彫った牡丹は、もう一生消せないのだ。
 
諦めるしかない。
 
 
その日は予約が四時からで、他に飛び込みの客もなかったので、梨奈の頭頂部の大きな牡丹を中心に、前、右、左に牡丹の花、後頭部に大きなアゲハチョウを彫られた。
 
アゲハチョウの下に、さらに牡丹の花を重ねたので、牡丹は計五輪だ。
 
頭部全体に入れ墨を彫られてしまった。
 
今日は筋彫りだけだったが、痛みはそれほど激しくはなかったので、長時間の施術にも何とか耐えられた。
 
しかし精神面の打撃が大きかった。
 
 
聡美さんに
 
「私もスキンヘッドにされて、頭いっぱいに牡丹と蝶を彫られちゃいました」
 
なんてメールしたら、びっくりするだろうな。
 
梨奈は驚く聡美の顔を想像した。
 
聡美は髪が伸びて、頭の牡丹は見えなくなっている。
 
 
「よし、今日はこれまでにしておこう。続きはまた今度だ。梨奈君、よく頑張ったな。これで今日から梨奈君は俺たちの一門入りだ。おめでとう」
 
今までの呼び捨てから、今度は最初のように“梨奈君”に戻った。
 
言い方も温和な感じになった。
 
試練に耐え、彫甲一門として認めてくれたということなのだろう。
 
 
梨奈はさっそく手鏡に頭を映した。
 
そして愕然とした。
 
髪が伸びれば入れ墨は見えないようにするといいながら、前頭部に彫られた牡丹は、明らかに髪の生え際からはみ出している。
 
髪を伸ばしても、額に花びらや葉の一部が見えてしまう。
 
これでは顔に彫られたのと同じだ。
 
彫られているとき、けっこう額のほうにはみ出しているような感覚があったが、やはりそうだったのだ。
 
 
「あのヒゲオヤジ、何するのよ。全く信じられないー!!」
 
梨奈はそう叫びたかった。
 
転写するとき、よく確認するべきだった。
 
もう前髪で隠すしかない。
 
ああ、大変なことになった。
 
梨奈は彫甲のところに来たことを後悔した。
 
 
もう一生消せないのだ。
 
もう堅気には戻れない。
 
こうなったら彫り師としてとことんやっていく以外にない。
 
梨奈はそう固く決意した。
 
額にはみ出したのは、梨奈の退路をなくすために、彫甲が意図的にやったことだった。
 
 
 
午後二時が過ぎ、ようやく食事にありついた。
 
食事は彫光喜が作っているようだ。
 
おかずは鯖の煮付けに野菜サラダ、そして味噌汁だった。
 
女の私より光喜さんのほうが料理が上手だと思われた。
 
 
「紹介する。今日から我々の一員になった速水梨奈君だ。よろしく頼む」
 
食事の前に、彫甲は三人の弟子に梨奈を紹介した。
 
もう一人は彫青龍(ほりしょうりゅう)という、彫甲の一番弟子だ。
 
彫青龍は口ひげを生やし、メガネをかけた、険しい顔つきの三〇歳を超えていると思われる男性だ。
 
やはり頭を丸刈りにしている。
 
師匠の彫甲以外は、梨奈を含めて皆丸刈りだ。
 
でもなぜ私だけ頭に入れ墨を彫られなくてはならないのだろうか。
 
そう思うと梨奈は悔しさがこみ上げた。
 
 
「梨奈君にも彫り師としての名前をつけないといかんな。女だから、彫雅はどうだ? 略称はミヤビだ」
 
彫甲は提案した。
 
梨奈としては気に入らなかった。
 
 
「私、これまで仲間のみんなから牡丹というアーティスト名で呼ばれてました」
 
せっかくバイクギャングの仲間たちがつけてくれた名前なので、ここでも牡丹と呼ばれたかった。
 
短い間ではあったが、ピオニーでも牡丹と名乗っていたのだ。
 
 
「過去の名前はどうでもいい。ここでは“彫”がつく名前だ。彫雅。優雅で女らしくていいじゃないか」
 
彫甲はどうあっても力士の四股名から名付けたいようだ。
 
女性彫り師には彫雅とつけることを以前から考えていた。
 
 
「でも師匠、梨奈さんは女性だから、やっぱり四股名とは関係ない名前のほうがいいんじゃありませんか?」
 
師匠には絶対服従を強いられているのだが、彫光喜はあえて意見を述べた。
 
 
「彫雅のどこがいかんのかね? 青龍、大海、どうだ?」
 
「はい。俺はいいと思います」
 
「俺も雅やかで、女性らしくていいと思いますが」
 
二人は彫甲にお追従を言った。
 
しかし梨奈はあまり気に入らなかった。
 
 
「どうだ、梨奈君。青龍と大海もいいと言っているんだ」
 
「今までの牡丹がだめで、“彫”がつく名前じゃないといけないというのなら私も従いますが、でもできればお相撲さんとは関係ない名前がいいです。やっぱり私も女ですから」
 
梨奈は遠慮がちに主張した。
 
 
「そうか。梨奈君はいやか。まあ、本人がいやがるならしかたないな。それなら、彫梨奈。りが重なって言いにくいから、彫奈はどうだ?」
 
あれ? どこかで聞いたことがある、と梨奈は思った。
 
そして、去年の夏に、赤羽海岸でバイクギャングの仲間たちが、アーティスト名のことで協議したとき、康志が提案したとおりのことを彫甲が言っていると気づいた。
 
そう思うと、おかしかった。
 
 
そのときは政夫が、「梨奈は“彫”がつかない名前のほうがいいんじゃないかな?」
と反対し、“牡丹”となったのだ。
 
 
康志が提案してくれた名前と同じなので、梨奈は別のおかしな名前をつけられないうちに「はい、私、彫奈がいいです」
と申し出た。
 
 
食事が終わったあと、ささやかな歓迎会が行われた。
 
梨奈が頭に牡丹を彫られている間に、準備がされていたようだ。
 
応接セットがある部屋が簡素だが飾り付けを
されていた。
 
ケーキや飲み物も用意されている。
 
 
「お客さんが来るまで、あと一時間ほどだが、ゆっくりしてくれ」
 
最初に彫甲の挨拶があった。
 
しかしゆっくりしてくれ、と言いながら、いろいろな注意をされ、重苦しい雰囲気になった。
 
 
「うちの道場としては、初めての女性彫り師を迎えることになるが、最初に一言注意しておく。弟子同士の恋愛はいっさい禁じる。恋愛したいなら、一人前の彫り師だと俺が認めてからだ。もし恋愛関係にあることが発覚したら、重いペナルティーを与える。俺は慈悲深いから、破門にはしないつもりだが、それ相応のペナルティーだ。そうだな。罰金50万円だ」
 
罰金50万円と聞き、一同は驚いた。
 
特に梨奈は彫光喜に対し、明らかに恋愛感情を抱いている。
 
頭を丸刈りにされ、さらに牡丹を彫られるという暴挙に耐えたのも、ひとえに光喜に対する恋慕の気持ちからだった。
 
 
梨奈は早く師匠から認められ、彫光喜との恋愛が認められるようになりたいと思った。
 
だが、そのとき、肝心の光喜にはもう彼女がいるのだろうか、という疑問に思い当たった。
 
もし光喜に決まった女性がいるのなら、頭に牡丹を彫ったことが無駄になってしまう。
 
梨奈は(どうか光喜さんとうまくいきますように)と神に祈るしかなかった。
 
 
「それから、うちでは師匠命令、序列は絶対だ。青龍、大海、光喜、彫奈。この順番だ。下の者が上の者に逆らうことは許さん。礼儀もきちんとしろ。ただし、上の者は下の者に対し、慈しみの心を持て。下の者は絶対服従だからといって、無理難題を強いることは許さんからな」
 
主な注意事項はこの二点だったが、それ以外にも細かい注意があった。
 
ようやくケーキと飲み物で、茶話会が始まった。
 
 
ケーキや飲み物がなくなったころ、
 
「おい、彫奈。おまえは自分の身体に何か墨を入れているのか?」
 
と彫甲は梨奈に尋ねた。
 
 
「はい、背中に鳳凰が入っています。両脚には自分で練習で彫った絵がいろいろ入っていますが」
 
「よし、それじゃあ、脱いで、みんなにその入れ墨を見せろ」
 
「え、ここで脱ぐんですか?」
 
「そうだ。早くしろ。師匠命令だ」
 
さっそく師匠命令が下った。
 
梨奈はやむなく上半身裸になり、背中をみんなの方に向けた。
 
暖房が入っているとはいえ、裸では少し寒かった。
 
 
「わぁ、こりゃすごい鳳凰だ」
 
彫光喜が感心した。
 
彫青龍、彫大海も目を見張った。
 
 
「下も、全部脱げ」
 
さらに彫甲は命じた。
 
梨奈はためらったが、
 
「師匠命令だ。さっき逆らうことは許さんと言っただろう」
 
と彫甲は強い口調で言った。
 
(入門早々とんでもない目にばかりあわされるわ。
 
これじゃあセクハラじゃないの。
 
何が下の者に慈愛の心を持て、よ)と梨奈は心で不満をかこったが、やむなくすべての着衣をとった。
 
裸を晒すのは、全身にタトゥーを彫った者の宿命かと諦めた。
 
 
梨奈は一糸まとわぬ姿で、全身のタトゥーを見せた。
 
 
「それはどこで彫ったんだ?」
 
と彫甲は尋ねた。
 
 
「はい。
 
フェニックスタトゥーのジュンさんに彫ってもらいました」
 
「フェニックスか。しょせんあいつらの絵は単なる落書きにしか過ぎん。これから俺が伝統の日本の入れ墨とはどういうものか、じっくり教えてやる。頭の牡丹が完成したら、腕や腹など、まだ空いているところにも、本物の入れ墨を俺が彫ってやる」
 
彫甲はジュンの鳳凰を鼻でせせら笑った。
 
梨奈は敬愛するジュンやフェニックスタトゥーが馬鹿にされたことが、悔しかった。
 
 
茶話会が終わり、彫甲は客を迎える準備にかかった。
 
 
 
「彫奈、おまえ、針の作り方を知っているか?」
 
彫甲は梨奈に尋ねた。
 
 
「え? 針ですか? 針って、マシンのニードルのことですか?」
 
「決まってるだろ。その様子じゃ、針の作り方も知らんな。おい、光喜、おまえ、彫奈に教えてやれ」
 
彫甲は彫光喜に命じた。
 
 
彫光喜と梨奈は二階に上がっていった。
 
やっと二人きりになれたと梨奈は思った。
 
 
「来た早々ひどい目に遭いましたね。ほんと、女性を丸刈りにするだけでも大変なことなのに、頭に一生消えない入れ墨を彫るなんて、ひどいですよ。それに、額にはみ出してるじゃないですか。これじゃあ髪が伸びても、隠しようがない。俺も何も言ってあげられなくて、ごめんよ」
 
「いいです。髪を伸ばすことを許されたら、前髪で隠しますから」
 
梨奈は彫光喜が頭のことで怒りを共有してくれたことが嬉しかった。
 
 
「これまで何人もの女性彫り師の応募があったけど、丸刈りとか頭に彫れ、と言われ、みんな逃げちゃったんですよ。女性はいやになったらすぐ辞めるので、そうさせないための鎖だと言っていました。そんな嫌がらせに耐えたのは、彫奈が初めてです」
 
梨奈は(我慢できたのは、光喜さんがいてくれたから)と心の中で呟いた。
 
 
彫甲自身も福岡で修業をしているとき、当時の師匠に、牛鬼という頭は牛、身体が蜘蛛のような妖怪の絵を頭に彫られた。
 
だから最初は梨奈の頭にジョロウグモを彫ろうとした。
 
 
彫光喜はアメリカ製の針作り器やはんだごてなど使い、梨奈に針の作り方を教えた。
 
丸針、平針、マグナムなど、これまで梨奈は高いお金を払って購入していたが、自作すればずっと安くつくのだということを知った。
 
 
梨奈は教えてもらったとおり、自分でもやってみた。
 
けれども最初はなかなかうまく作れなかった。
 
はんだごてを扱うのは初めてだった。
 
それでもやっているうちに要領を飲み込んだ。
 
 
針を作りながら、彫光喜は小声でいろいろなことを梨奈に話した。
 
本名は小野田伸吾で、年齢は二五歳であること、生まれは横浜で、小学生のときに名古屋にやってきたこと、今は北区のアパートに住んでいることなどを梨奈に伝えた。
 
彫光喜は去年の一〇月に彫甲に弟子入りして、まだ四ヶ月にもならない。
 
ようやく少し彫らせてもらえるようになった。
 
 
梨奈もアートメイクやボディーアートをやっていたが、トラブルに巻き込まれてアートメイクサロンを辞めたことなどを話した。
 
 
「そうなんですか。彫奈はもう彫ることができるんですね。序列は俺より下ということですが、これはすぐに抜かれてしまいそうだな」
 
「いえ、そんなことないですよ。やっぱり光喜さんは先輩ですから」
 
彫光喜は梨奈の鳳凰のタトゥーについて、見事だと思うと言った。
 
 
「師匠はあんなひどいこと言ってましたけど、俺は素晴らしいと思いますよ。確かに師匠はうまいけど、ちょっと天狗になって、他の彫り師を馬鹿にしすぎています。あ、このことはここだけの話にしておいてくださいね」
 
「はい、絶対に誰にも言いません」
 
彫光喜と話していると、どんどん彼に傾倒していく自分に気づいた。
 
 
「彫奈はもう彫ってるんだから、マシンなんかは持ってますよね」
 
彫光喜は梨奈のマシンについて尋ねた。
 
 
「はい。
 
コイルマシンやアートメイク用のマシン、それからドイツ製のデジタルマシンも持ってます」
 
「デジタルマシンですか? どういうのかわからないけど、すごそうなマシンですね」
 
「前に働いていたところで、もらったんですが、すごく高性能なマシンです」
 
「今日は持ってないんですね」
 
「はい。
 
今日はお話を聞くだけのつもりだったから、持ってきませんでした」
 
「自分のマシンは、絶対ここに持ってきてはいけませんよ。もし持ってこれば、珍しいマシンだと、師匠や青龍さんに没収されますからね。ここではS社のマシンを二、三台貸してくれるから、それを使ってください。もし自分のマシンを持ってくるなら、コイルマシンだけにしておいたほうがいいです。そのデジタルマシンとかいうのだと、絶対青龍さんに取り上げられるから。そしてそれを師匠への貢ぎ物にするんですよ」
 
彫光喜はそんな注意事項なども教えてくれた。
 
また、師匠の彫甲のことも話した。
 
 
彫甲は以前、武甲山という四股名の力士だった。
 
四股名が示すように、埼玉県の出身だ。
 
十両を目前にしながら、大きな怪我をして引退した。
 
引退後は九州で暴力団の用心棒をやっていたという。
 
そのときに入れ墨と巡り会い、彫り師の世界に入った。
 
 
「やくざの用心棒をやっていたといっても、今は暴力団とは完全に切れているそうですけど。彫甲という名前は、武甲山から取ったそうです」
 
「だから彫り師の名前も、力士にこだわっているのですね」
 
梨奈は納得した。
 
身体が大きいのもうなずけた。
 
 
この道場には、今彫大海が住み込んで、管理を任されていることも聞いた。
 
彼は二階で寝泊まりしている。
 
 
完成した針は、水や洗剤でよく洗い、はんだ付けのときに使ったフラックスを洗い流すように教えられた。
 
 
 
夜八時に道場を閉め、彫甲は弟子四人を連れ、奥さんが経営しているちゃんこ料理店“武甲山”に行った。
 
店はけっこう賑わっていた。
 
 
外出のとき、丸刈りで、さらにタトゥーが入った頭では、梨奈は気恥ずかしかった。
 
今日は帽子をかぶってきていない。
 
しかし彫甲は
 
「彫奈はうちの門下生なんだから、堂々としておれ。頭の入れ墨は勲章と思えばいい」
 
などと言い放った。
 
 
「今日は彫奈の歓迎会だ。みんな、遠慮なくやってくれ。今夜は無礼講だ。序列を気にせず、ふだん言えないようなこともどんどん言ってくれ」
 
彫甲は弟子たちに羽目を外すことを許可した。
 
とはいえ、師匠の前で不満を言える者はいなかった。
 
 
武甲山で、梨奈は彫甲の奥さんに紹介してもらった。
 
四〇歳ぐらいと思われる、大柄だが、面長のなかなかきれいな博多美人だ。
 
師匠の奥さんだけあって、包容力がありそうな感じがした。
 
包容力がある女性でなければ、彫甲の妻は務まらないだろう。彼女には背中一面に生まれ年の守護仏である、阿弥陀如来の彫り物があるという。福岡にいたころの、彫甲の師匠の作品だ。小学生の子どもが二人いる。
会は二時間ほどで終えた。クルマを運転する彫光喜以外はかなり酒を飲んだ。梨奈も彫光喜に対する切ない気持ちをごまかすためと、丸坊主にされ、頭にタトゥーを彫られてしまったことに対する鬱憤を晴らすため、少し飲み過ぎたようだ。
道場に戻った後、彫光喜は酔った梨奈に、「俺、クルマだから、彫奈の家まで送りますよ。鶴舞の近くだったよね。鶴舞は通り道だから」と言ってくれた。彫光喜は中古で安く買った、スバルの青いR2に乗っている。
「彫奈を送るのはいいけど、恋愛禁止ということを忘れるなよ。もし何かあれば、二人に50万円ずつ払わせるからな。俺にはすぐわかるから、隠しても無駄だぞ」
別れ際に彫甲は彫光喜に釘を刺した。
「師匠はああ言いましたが、実際師匠は勘が鋭いというか、人の心を見抜く天才なんですよ。本当に超能力者か霊能者ではないか、と思えるぐらいに。だから師匠の前では、彫奈も気をつけてくださいよ。
それから大海さんはけっこういい人だけど、青龍さんは何考えているかわからないところがあるから、要注意です。自分が師匠に取り入るために、平気で他人を足蹴にする人だから。俺と大海さんはヒゲメガと呼んでいます」
クルマの中で彫光喜は梨奈に警告した。ヒゲメガには梨奈も笑った。
「私、光喜さんのこと……」
自分のアパートの近くに来たとき、梨奈は酔った勢いで告白しかけた。
「あ、それ以上は言わないで。彫奈の気持ちはわかっています。でも、今は聞かなかったことにしておきます」
彫光喜はすでに梨奈の心に気づいていた。彼は梨奈をアパートの前で下ろした。梨奈はタオルを巻き、丸刈りでタトゥーが入った頭を隠した。部屋に入ると、梨奈はトイレだけ済ませ、パジャマに着替えることもせず、そのまま布団の中に潜り込んでしまった。火の気のない部屋は寒かった。
剃り上げた頭が枕に触れる感触が冷たくて、何ともいえず不快だった。しかしすぐに睡魔のとりこになった。携帯電話に、七海や政夫たちからメールが届いていたことにも気づかなかった。

 

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